イギリス文学史 — ベーオウルフからイシグロまで

イギリス文学史を通して見るときの軸になるのは、英語という言語の地位の変動である。この文学史は、英語が一度負け、勝ち直し、世界に広がり、最後には外から作り変えられていく過程として整理できる。

出発点で押さえておく事実が一つある。英語は一度、文学の言葉であることをやめている。1066年にノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服した後、支配層の言葉はフランス語になり、学問の言葉はラテン語で、英語は支配される側の話し言葉に落ちた。この状態がおよそ三百年続く。

この経験は英語に二つのものを残した。一つは語彙の二層構造である。生きている動物はゲルマン系の語で呼ばれ(cow, pig, sheep)、食卓に出た肉はフランス語系の語で呼ばれる(beef, pork, mutton)。育てたのは英語を話す農民で、食べたのはフランス語を話す領主だったためである。もう一つは、外来語を際限なく取り込む体質である。負けた言語は語彙の純粋さを保てない。結果として英語は、ヨーロッパの主要言語の中でも語彙の数が突出して多い言語になった。シェイクスピアが自在に語を作れたのも、この雑種性の上に立っている。

以下、六つの時代に分けて追う。全体の見取り図は次のようになる。

時代年代イギリス史の区分文学に起きたこと代表作
中世1100〜1500年ノルマン征服以後英語が文学の言葉に戻るカンタベリー物語
ルネサンス1500〜1660年テューダー朝・ステュアート朝演劇と聖書翻訳で英語が鍛えられるハムレット 失楽園
17-18世紀1660〜1798年王政復古・産業革命の前夜小説という形式が生まれるロビンソン・クルーソー ガリヴァー旅行記
ロマン主義1798〜1837年ナポレオン戦争前後詩を日常の言葉で書く抒情民謡集 高慢と偏見
ヴィクトリア朝1837〜1901年大英帝国の最盛期都市・階級・信仰の揺らぎを小説が扱うジェイン・エア ミドルマーチ
20世紀以降1901年〜二つの大戦・帝国の解体書き手の中心が外へ移るユリシーズ 一九八四年

中世(1100〜1500年/ノルマン征服以後)— 負けて、取り戻す

征服前の英語(古英語)で書かれた最大の作品がベーオウルフである。成立時期には諸説あり、写本は10世紀末から11世紀初めのものとされる。今日の英語話者はこれを読めない。外国語と言ってよいほど文法も語彙も違う。行の中で語頭の音をそろえるを骨格にした詩で、怪物と戦う英雄の話である。

1066年以降、英語で書かれた文学はほとんど途絶える。書ける人間は英語で書かず、書く人間はフランス語かラテン語を選んだ。

英語が文学の言葉として戻ってくるのは14世紀である。チョーサーカンタベリー物語(1387年頃から)は、カンタベリーへの巡礼に集まった三十人ほどが順番に話を語っていくという構成をとる。騎士がいて、粉屋がいて、修道女がいて、何度も結婚した女がいる。身分の違う人物に、それぞれの身分の言葉で喋らせた点が新しかった。

チョーサーが書いたのはロンドンの英語である。この作家が権威を得たことで、その方言が標準の英語になっていく。文学が言語の標準を決めた例にあたる。

作品成立作者種類
ベーオウルフ8〜11世紀未詳古英語の叙事詩
『農夫ピアズの幻想』1370年代ウィリアム・ラングランド寓意詩
カンタベリー物語1387年頃〜ジェフリー・チョーサー物語集
アーサー王の死1485年トマス・マロリー散文の物語(アーサー王もの)

ルネサンス(1500〜1660年/テューダー朝・ステュアート朝)— 英語が鍛えられる

16世紀の英語には、まだ言語としての劣等感があった。モアユートピア(1516年)を書いたのはラテン語である。真面目な思想を書くならラテン語、というのが当時の常識だった。フランスでも同じ問題が同じ頃に起きている

だがこの世紀の後半から、英語は急速に力を得る。スペンサー妖精の女王で、古風な英語をあえて使って国民的な叙事詩を試みた。マーロウフォースタス博士で、韻を踏まずに弱強のリズムだけで進むを演劇の言葉として定着させる。

そしてシェイクスピアである。1564年生まれ、1616年没。大学を出ていない。特別なのは思想の深さより言語の扱いにある。名詞を動詞に変え、語をつなげて新語を作り、王の言葉と道化の下ネタを同じ場面に置いた。今日の英語話者が日常で使う言い回しの相当数が、その劇に出典を持つ。

演劇の条件も効いている。当時の劇場に舞台装置はほとんどなく、場所も時間も天候も、すべて台詞で説明するしかなかった。言葉が背景を描かなければ、観客には何も見えない。この制約が言語を鍛えた。同じ頃、フランスでは規則が演劇を縛っていたが、イングランドに規則はなく、シェイクスピアは悲劇の中に喜劇を平気で混ぜている。

1611年に欽定訳聖書が出る。国王ジェームズ1世の命で作られた英訳聖書で、文学作品ではないが、以後三百年の英語散文のリズムを決めた。日曜ごとに全国民が同じ英語を聞いたのだから、影響の規模が違う。

ミルトン失楽園(1667年)は、清教徒革命に加担し、王政復古で失脚し、失明した人物が、口述で書かせた叙事詩である。神に反逆したサタンが、意図に反して最も魅力的な人物になっている点を、後のロマン派が見逃さなかった。刊行年は王政復古の後にあたり、時期でいえば次の17-18世紀に属する。それでもここで扱うのは、その学識と詩の構想がルネサンスの人文主義の延長にあるためで、文学史では最後のルネサンス詩人として位置づけられることが多い。時代区分の境界に収まらない書き手がいることの例である。

作品成立作者種類
ユートピア1516年トマス・モア思想書(ラテン語)
妖精の女王1590〜1596年エドマンド・スペンサー叙事詩
フォースタス博士1592年頃クリストファー・マーロウ悲劇
ハムレット1600年頃ウィリアム・シェイクスピア悲劇
欽定訳聖書1611年訳者委員会聖書の英訳
失楽園1667年ジョン・ミルトン叙事詩

17-18世紀(1660〜1798年/王政復古以後)— 小説が発明される

近代小説は、この時期のイギリスで生まれたと考えられている。理由は文学の内側になく、外側にある。中産階級が育ち、字が読めて、本を買う金があり、読む時間があった。

デフォーロビンソン・クルーソー(1719年)は、無人島に流れ着いた男が、何をいくつ持っていて、何日で何を作ったかを延々と記録する。この即物性そのものが新しかった。英雄でも神話でもなく、収支を計算する人間が主人公になっている。

リチャードソンは手紙だけで長篇を書き、フィールディングトム・ジョーンズで語り手が読者に話しかける形を作った。スターントリストラム・シャンディ(1759年から)に至っては、話が脱線し続けて主人公がなかなか生まれず、真っ黒なページや白紙のページが挿入される。小説というジャンルが生まれた直後に、もうそれを壊す作品が出ている。

スウィフトガリヴァー旅行記(1726年)は児童書として売られることが多いが、原型は人間という種そのものへの攻撃である。散文の言葉を整える仕事も進み、サミュエル・ジョンソンが1755年に『英語辞典』を独力で完成させた。

ロマン主義(1798〜1837年/ナポレオン戦争前後)— 普通の人の言葉で

1798年、ワーズワースコールリッジ抒情民謡集を匿名で出す。その序文が宣言になった。詩は特別に飾った言葉ではなく、普通の人が実際に使う言葉で書かれるべきだ、という主張である。

これはフランスのロマン主義とは争点が違う。フランスでは劇場で規則を壊すことが争点になったが、イギリスでは誰の言葉で書くかが争点になった。言語の階級性を経験してきた文学らしい対立である。

ブレイクは独自の神話を作り、自分で銅版に彫って印刷した。生前はほとんど狂人扱いされている。バイロンは詩よりもスキャンダルで有名になり、ギリシャ独立戦争に加わって現地で病死した。作家が生き方そのもので有名になる型は、ここで完成する。キーツは25歳で、シェリーは29歳で死んだ。

同じ時期にオースティンがいる。ロマン派の熱狂とは無縁で、田舎の中流階級の結婚市場を、精密な観察と皮肉で書いた。高慢と偏見は1813年。生前の評価は高くなかったが、今日ではこの時代で最も読まれている。ナポレオン戦争のさなかに書かれていながら、作品に戦争はほとんど出てこない。

メアリー・シェリーフランケンシュタイン(1818年)は、科学が生命を作ったらどうなるかを問うた。SFの起点とされることが多い作品が、十代で書き始められている。

作品発表作者種類
『無垢と経験の歌』1794年ウィリアム・ブレイク詩集
抒情民謡集1798年ウィリアム・ワーズワースサミュエル・テイラー・コールリッジ詩集。序文が宣言になった
『チャイルド・ハロルドの巡礼』1812〜1818年バイロン物語詩
高慢と偏見1813年ジェイン・オースティン小説
フランケンシュタイン1818年メアリー・シェリー小説
『アイヴァンホー』1819年ウォルター・スコット歴史小説

ヴィクトリア朝(1837〜1901年/大英帝国の最盛期)— 産業と信仰

ヴィクトリア女王の在位期にあたる1837年から1901年は、イギリスが世界の四分の一を支配した時代である。文学の主題は都市・階級・貧困、そして信仰の揺らぎだった。

ディケンズは雑誌連載で書き、大衆に読まれながら社会批判をやった。孤児院、債務者監獄、法廷の遅延、産業都市の煤煙。本人が12歳のとき父の投獄で工場労働に出されており、その経験が生涯の主題になっている。

ブロンテジェイン・エアブロンテ嵐が丘は同じ1847年に出た。姉妹は男性名で発表している。ジョージ・エリオットも男性名である。女性が本名で書くことに障害があった時代の記録が、著者名そのものに残っている。

1859年、ダーウィンの『種の起源』が出る。人間が神の被造物ではなく進化の産物だという主張は、信仰の前提を崩した。信仰が支えを失う経験が、この時代の文学の底に流れている。ハーディの小説では、人物が努力すればするほど不幸になる。ダーバヴィル家のテス(1891年)への非難に嫌気がさして小説をやめ、以後は詩だけを書いた。

世紀末、ワイルドは機知で社交界の頂点に立ち、同性愛を理由に起訴されて二年の重労働刑を受け、出獄後に困窮のうちに死んだ。

20世紀以降(1901年〜/二つの大戦と帝国の解体)— 外から書き返される

20世紀の入口で英文学の中心にいるのは、イングランド生まれではない人々である。

コンラッドはポーランドに生まれ、英語は三番目に覚えた言語だった。その作家が闇の奥(1899年)で、アフリカにおけるヨーロッパの所業を書いている。ジョイスイェイツはアイルランド人である。英文学史はこれらの作家を自分のものとして扱ってきたが、当人たちの立場は単純ではない。ジョイスは生涯の大半をアイルランドの外で過ごし、そのすべての作品でダブリンを書いた。

1922年は特別な年である。ユリシーズ荒地が同じ年に出た。前者はダブリンの一日を七百頁で書き、後者は文明の廃墟を引用の断片で組み立てている。どちらも、人物の頭に浮かぶことを整理せず書くや断片の配置といった方法によっており、モダニズムと呼ばれる。同じ年、フランスではプルーストが死んでいる。

ウルフダロウェイ夫人(1925年)で一日の意識を追い、『自分ひとりの部屋』では、女性が小説を書くには金と鍵のかかる部屋が要ると論じた。文学の問題を経済の問題として言い切った点で、今も引かれ続けている。

オーウェルは帝国警察としてビルマに勤め、スペイン内戦で撃たれ、一九八四年(1949年)を書いて翌年に死んだ。言葉が支配の道具であるという主題は、この文学史の出発点にある征服された言語の問題と呼応している。

そして帝国が解体する。旧植民地の作家たちが英語で書き返しはじめた。ラシュディはインドの独立を魔術的な語りで書き、著書を理由に死刑宣告を受けて長く潜伏した。イシグロは日本で生まれ、イギリスで育ち、日の名残り(1989年)でイギリスらしさの典型とされる執事を書いて、2017年にノーベル文学賞を受けている。英語で書かれる文学の中心は、もうロンドンだけにはない。