オスカー・ワイルド

- 原綴
- Oscar Wilde
- 生没
- 1854–1900
- 出身
- アイルランド・ダブリン
- 国
- イギリス
- 時代
- ヴィクトリア朝
生涯
1854年、ダブリンの裕福な家に生まれた。父は眼科医、母は詩人で民族主義者だった。オックスフォード大学で古典を学び、在学中から機知と装いで注目される。
卒業後ロンドンに出て、唯美主義の旗手として名を売った。1882年にはアメリカへ講演旅行に赴き、一年間で百回以上の講演を行っている。税関で「申告するものは自分の才能だけだ」と述べたという逸話が伝わる。
1884年に結婚し、二児をもうけた。この時期に童話集とドリアン・グレイの肖像を発表する。1890年代に入ると劇作で成功し、1895年には二本の劇が同時にロンドンで上演される絶頂を迎えた。
同じ1895年、破局が来る。恋人アルフレッド・ダグラス卿の父クィーンズベリー侯爵が、ワイルドを同性愛者として公然と侮辱した。ワイルドは名誉毀損で告訴するが、その裁判で自分の私生活が明るみに出て、逆に訴追される。当時のイギリスでは男性同士の性行為は犯罪だった。有罪となり、二年の重労働を科される。
出所後は破産し、名を変えてフランスへ渡った。1900年、パリの安宿で46歳で死去した。
作風
ワイルドは、芸術が道徳に奉仕することを否定した。当時のイギリス文学は、原則として教訓的である。ディケンズは社会の不正を告発し、ジョージ・エリオットは道徳的な成熟を書いた。小説は読者を善くするものだ、という前提があった。
これに対してワイルドは、ドリアン・グレイの肖像の序文でこう書いている。道徳的な本、不道徳な本というものはない。よく書けた本と、まずく書けた本があるだけだ。芸術のための芸術を掲げる唯美主義(アエスティシズム)の立場で、フランスのゴーティエらの主張を英語圏へ持ち込んだものにあたる。
代表作は戯曲である。上流社会の客間を舞台にした風俗喜劇という、当時最も安全な形式を使い、そのなかで上流社会の建前を片端から茶化した。台詞は警句(エピグラム)の連射で、登場人物が本気で言っているのか冗談なのか分からないまま話が進む。
童話は調子が違う。『幸福な王子』『わがままな大男』は、自己犠牲と憐れみを主題にしており、皮肉な喜劇と同じ作者のものとは思えない。この二面性が、この作家を一つの型に収めにくくしている。
晩年の作品では、警句も皮肉も消える。獄中の経験から書かれた『レディング牢獄のバラード』は直截な詩で、「人はみな、自分の愛するものを殺す」という一句が繰り返される。
作品
ドリアン・グレイの肖像(1890年)
唯一の長篇小説である。美しい青年が、自分の肖像画に老いと罪を肩代わりさせ、快楽と悪徳に耽る。発表時に不道徳だと激しく非難され、後の裁判では証拠として持ち出された。
『サロメ』(1893年)
フランス語で書かれた戯曲である。イギリスでは聖書の人物を舞台に出すことが禁じられ、上演できなかった。
『真面目が肝心』(1895年)
代表的な喜劇である。題名そのものが駄洒落になっている(earnest=真面目/Ernest=人名)。存在しない人物をでっち上げて二重生活を送る二人の男の話で、結婚、家柄、真面目さといった当時の価値が、すべて笑いの対象になる。
『幸福な王子』(1888年)
童話集である。
『獄中記(デ・プロフンディス)』
獄中でダグラスに宛てて書かれた長い手紙で、死後に刊行された。怨みと、自分の生の意味の問い直しが混ざっている。『レディング牢獄のバラード』(1898年)は出所後に書かれた最後の作品である。
文学史における立ち位置と影響
ワイルドは唯美主義の代表として扱われる。芸術を道徳の役目から切り離すという主張は、フランスではボードレールが先に示していた。ワイルドはそれを英語圏で、喜劇という最も受け入れられやすい形式に載せて広めたことになる。
同時に、ヴィクトリア朝の道徳が個人に何をしたかの最も有名な事例でもある。裁判は当時の新聞で大きく報じられ、その名は長く公の場から消えた。2017年、イギリスは同性愛で有罪とされた人々を死後に恩赦する法を成立させ(通称「チューリング法」)、ワイルドもその対象に含まれている。
日本での受容は早い。谷崎潤一郎、芥川龍之介、永井荷風らが読み、日本の耽美派に影響した。『サロメ』は日本でも繰り返し上演されている。
評価には振れがある。警句の巧みさは認められる一方で、思想的な深さを疑う見方も長くあった。近年は、クィア理論の文脈で、その生涯と作品が改めて読み直されている。