ジョナサン・スウィフト

- 原綴
- Jonathan Swift
- 生没
- 1667–1745
- 出身
- アイルランド・ダブリン
- 国
- イギリス
- 時代
- 17-18世紀
生涯
1667年、ダブリンにイングランド系の家に生まれた。父は出生前に死んでおり、親族の援助で学校と大学に進んだ。
イングランドへ渡り、政治家の秘書などを務めながら出世を目指した。政治パンフレットの書き手として一時期は権力に近づいたが、政変で後ろ盾を失う。望んだ地位は得られなかった。
1713年、ダブリンの聖パトリック大聖堂の首席司祭になる。本人はこれを都落ちと受け取っていた。だがそのアイルランドで、宗主国イングランドによる収奪を批判する側に回る。『ドレイピア書簡』はイングランドの貨幣政策への反対運動であり、アイルランドで英雄的な人気を得た。イングランドへの野心を持ちながらアイルランドの擁護者になったという位置の複雑さが、文章の激しさと無関係ではないとされる。
晩年は健康を害し、めまいと難聴に苦しみ、精神の障害を疑われる状態で死んだ。今日ではメニエール病だったとする見方がある。遺産の大半を精神病院の設立に充てている。自ら書いた墓碑銘には、激しい憤りがもはや彼の心を引き裂くことのできない場所へ行った、という趣旨の言葉が刻まれている。
作風
スウィフトは、風刺を笑いのためではなく攻撃のために使った。18世紀イギリスの風刺文学は、ポープに代表されるような洗練された機知を特徴とする。スウィフトのそれは違い、読者を不快にさせる方向へ振り切る。汚物、身体、暴力の描写が容赦なく出てくる。
最大の武器は、本気で言っているように見せることである。『穏健なる提案』(1729年)がその極端な例にあたる。内容は、アイルランドの貧しい家庭の乳児を食用として売れ、というものである。そして経済的な論証が、真面目な政策提案の文体で延々と続く。一年に何人生まれ、いくらで売れ、両親の収入がいくら増え、国全体の負担がいくら減るか。調理法にも言及される。
皮肉であることは明らかである。だがその明らかさが、逆に読者を追い詰める。イングランドがアイルランドを扱う実際のやり方は、これと本質的に何が違うのか、という問いが残る。
ガリヴァー旅行記でも同じ方法が使われる。航海記の文体を正確に模し、寸法や日付を細かく記す。事実の記録として読ませたうえで、そこに人間社会の戯画を置く。
作品
『桶物語』(1704年)
宗教諸派への風刺である。
ガリヴァー旅行記(1726年)
主著である。四つの航海の記録という形をとる。
児童書として流通しているのは前半二篇である。リリパット(小人国)では、卵をどちらの端から割るかで国が二つに分かれ、戦争になる。イギリスの政党対立と宗教対立の戯画である。ブロブディンナグ(巨人国)では、巨人の王にヨーロッパの政治と戦争を説明したガリヴァーが、君の同胞は地上を這う害虫のなかでも最も忌まわしい種族だ、と言われる。
後半二篇は、児童向けの版ではふつう省かれる。ラピュタ(飛島)は、抽象的な学問に没頭して実用を失った学者たちの島で、近代科学への風刺にあたる。フウイヌム国では、理性を備えた馬が支配し、人間の姿をした「ヤフー」が野蛮な家畜として扱われている。ガリヴァーは馬たちの理性的な社会に感嘆し、自分が人間であることに耐えられなくなる。帰国後の彼は、妻子の匂いに耐えられず、厩で馬と過ごす。彼は狂っている。だが読者は、彼が見たものが間違っていたとも言い切れない。
『穏健なる提案』(1729年)
短い風刺文で、英語で書かれた風刺のなかで最も引用される一篇である。
『ドレイピア書簡』(1724年)
アイルランド擁護のパンフレットである。
文学史における立ち位置と影響
スウィフトは英語の散文風刺の頂点とされる。オーウェルはこの作家について論じ、その影響を認めている。平明な文体で、対象の論理を内側から破壊するという方法が共通する。
ガリヴァー旅行記の受容史そのものが興味深い。人間への呪詛として書かれた本が、子ども向けの冒険譚として世界中に広まった。日本でも明治期から児童書として訳されている。前半だけを読んだ読者と、最終篇まで読んだ読者では、この作品の印象がまったく違う。
ディストピア文学の遠い先駆として位置づけられることもある。ラピュタの学者たちの描写は、技術と社会の関係への最初期の批判の一つにあたる。
「ヤフー」という語も残った。作中の野蛮な人間種の名で、粗野な人間を指す普通名詞として英語に入っている。