フランス19世紀

フランス文学 19世紀

通史では、この世紀を「規則が壊され、小説が世界を引き受ける」と一段落で要約した。ここではその中身を開く。

一つ先に言っておくと、この世紀のフランス文学は、順番に並ぶ四つの流派として覚えると必ず躓く。ロマン主義・写実主義・自然主義・象徴主義は、教科書では直列に並んでいるが、実際には重なり、並走し、同じ人物が複数にまたがっている。スタンダールはロマン主義の時代に写実主義の小説を書いた。シャルル・ボードレールは写実主義の年に象徴主義の詩集を出した。ヴィクトル・ユゴーはロマン派の総帥のまま世紀の終わり近くまで生きて、自然主義の若者たちに囲まれて死んだ。

流派の名前は後から整理のために貼られたラベルであって、当人たちが順番に交代したわけではない。この章では何が起きたかを追い、ラベルは最後に位置づける。

前提 — 政治体制が七回変わった

フランス十九世紀の文学を読むうえで、政治の変転を知らないと動機が見えなくなる。この百年で体制は次のように変わった。

出来事
1804ナポレオンが皇帝に(第一帝政)
1814-15ナポレオン失脚。ブルボン家が戻る(王政復古)
1830七月革命。ルイ=フィリップの七月王政へ
1848二月革命。第二共和政へ
1851ルイ=ナポレオンのクーデタ
1852第二帝政
1870普仏戦争に敗北。第三共和政へ
1871パリ・コミューンと、その鎮圧

一人の作家が生涯のうちに三つも四つも体制を経験している。 ヴィクトル・ユゴーは王政復古期に王党派の詩人として出発し、七月王政で貴族院議員になり、第二帝政に反対して十九年間亡命し、第三共和政で国民的な存在として帰還した。

この不安定さは文学の主題に直結する。一八四八年の革命が第二帝政に終わったことは、この世紀の文学における最大の幻滅であり、ギュスターヴ・フローベールの『感情教育』はまさにその幻滅を主題にしている。理想が裏切られ続けた経験が、書き手を熱狂から冷たい観察へ向かわせた、という筋で読むと、ロマン主義から写実主義への移行が単なる流行の交代ではなくなる。

ロマン主義 — 規則を壊す

準備期

十八世紀末にジャン=ジャック・ルソーが始めた「自分の内面を書く」という方向を、シャトーブリアンスタール夫人が引き継いだ。シャトーブリアンは異国と廃墟と憂鬱を書き、スタール夫人はドイツ・ロマン派をフランスに紹介した。フランスのロマン主義はドイツやイギリスより二十年ほど遅れて始まるが、それは古典主義の規則がそれだけ強固だったということでもある。

一八二〇年、アルフォンス・ド・ラマルティーヌの『瞑想詩集』が出る。個人の感情を歌う詩がこれほど売れたことは新しかった。

一八二七年 — 宣言

ヴィクトル・ユゴーが戯曲『クロムウェル』に付した序文が、ロマン主義の理論的な宣言になった。主張は、古典主義が美しいものだけを選んで醜いものを排除しているのに対し、自然は崇高と グロテスクを混ぜている、というものである。したがって文学もそれを混ぜてよい。そして三単一の規則のうち、時と場所の制限には根拠がないと切り捨てた。

一八三〇年 — エルナニ合戦

一八三〇年二月、ヴィクトル・ユゴーの『エルナニ』がコメディ=フランセーズで初演される。古典主義の擁護者とロマン派の若者が客席で衝突し、野次と乱闘が起きた。ユゴー側は劇場に支持者を動員しており、これは自然発生した騒ぎではなく組織された示威だった。上演のたびに繰り返され、演劇史では「エルナニ合戦」と呼ばれる。

同じ年の七月に七月革命が起きている。文学における規則の打倒と、政治における王政の打倒が同じ年に重なったことは、当時の当事者たちにとって偶然ではなかった。

一八三〇年代の作家たち

新聞連載という形式がこの時期に成立したことは、文学史の事実として重い。 続きを読ませるために話を引き延ばす技術が発達し、読者層が一気に広がった。オノレ・ド・バルザックエミール・ゾラも、まず新聞で読まれている。

小説が世界を引き受ける

スタンダール — ラベルからはみ出す人

スタンダール赤と黒は一八三〇年、エルナニ合戦と同じ年に出ている。ロマン主義の絶頂期である。ところが中身は熱狂とは逆で、貧しい青年が野心のために感情を計算して使い、階級の壁に突き当たって死ぬ話である。副題は「一八三〇年代記」。

彼は「小説とは道に沿って持ち歩く鏡だ」という趣旨のことを書いた。自分は五十年後に読まれるだろうとも書いており、実際その通りになった。生前の評価は低い。流派のラベルが後付けであることの、最も分かりやすい例がスタンダールである。

一八三九年の『パルムの僧院』は、主人公がワーテルローの戦場をさまよいながら、自分がいま何を見ているのか最後まで分からない、という場面から始まる。戦争を英雄的に描かない書き方の起点として、後の世紀に何度も参照される。

バルザック — 社会を一つの建物にする

オノレ・ド・バルザックがやったことは、個々の小説を書くことではなく、全作品を一つの体系として構想することだった。一八四二年に『人間喜劇』という総題を与え、およそ九十篇を、パリの場面・地方生活の場面・私生活の場面といった分類の下に配置した。

技術的な発明は人物再登場法である。ある小説の脇役が別の小説の主役になり、その後の人生が三作目で語られる。読者は作品を横断して人物を追うことになり、個々の小説の外側に「社会」という全体が実在するかのような効果が生まれる。ラスティニャックやヴォートランがその代表である。

彼が書こうとしたのは、風俗の歴史家として、金と欲望が人間を動かす仕組みそのものだった。莫大な借金を抱え、コーヒーを大量に飲みながら書き続け、五十一歳で死んでいる。

フローベール — 書き手を消す

ギュスターヴ・フローベールが到達したのは、オノレ・ド・バルザックとは逆方向だった。バルザックは語り手が前に出て説明する。フローベールはそれを消そうとした。

彼は書簡の中で、作者は作品の中に神のようにいなければならない、どこにでもいて、どこにも見えない、という趣旨のことを書いている。この方針を実現する技術が自由間接話法である。地の文なのに登場人物の心の声が混じっていて、どこまでが語り手の判断でどこからが人物の思い込みなのか、境界が消える。読者は自分で判断するしかなくなる。

ボヴァリー夫人は一八五六年に雑誌連載、翌年単行本。田舎医師の妻が小説に憧れ、恋愛に憧れ、借金を重ねて服毒する話である。この作品に道徳的な結論は書かれていない。 起訴の理由もそこにあった。

一八六九年の『感情教育』は、さらに徹底している。一八四八年の革命を背景に、青年が恋も政治も何一つ成し遂げないまま年を取る。クライマックスがないことがクライマックスであるという構造で、当時は失敗作と見なされた。

一八五七年 — 二つの裁判

この年に悪の華ボヴァリー夫人が出て、どちらも公序良俗違反で起訴された。フランス文学史でこの一年ほど象徴的な年はない。

ボヴァリー夫人悪の華
起訴1857年1月1857年8月
判決無罪有罪
処分なし6篇の削除命令・罰金

ギュスターヴ・フローベールは無罪になったが、裁判自体が宣伝になって本は売れた。シャルル・ボードレールは有罪となり、六篇を削除させられている。この削除命令が正式に破棄されるのは、彼の死から遠く後の二十世紀になってからである。

同じ年に、同じ理由で、片方が無罪で片方が有罪になったことは、当時の検閲が何を危険と見なしたかを示している。散文で描かれた姦通よりも、詩が美と悪を結びつけることのほうが危険と判断された。

自然主義 — 科学を模倣する

エミール・ゾラオノレ・ド・バルザックの体系構想を引き継ぎ、そこに科学を接ぎ木した。『ルーゴン・マッカール叢書』は一八七一年から一八九三年まで、二十巻。副題は「第二帝政下の一家族の自然的社会的歴史」で、遺伝と環境が人間をどう決定するかを、一族五世代にわたって追跡するという構想である。

一八八〇年の『実験小説論』で、彼は方法を明言した。小説家は医学者が実験するように、人物を条件の中に置いて何が起こるかを観察せよ。文学を科学の一分野にしようとした、文学史上でも極端な企てである。今日の目で見れば、遺伝理論の部分は科学として支持されていない。しかし作品はその理論より強かった。

一八八〇年、ゾラを囲む若手が短篇集『メダンの夕べ』を出す。ここに収められたギ・ド・モーパッサンの『脂肪の塊』が、彼を一夜で有名にした。普仏戦争を背景に、娼婦だけが尊厳を守り、上流の人々が彼女を利用して捨てる話である。モーパッサンはその後、短篇の技術を極限まで洗練させ、四十三歳で梅毒により精神を病んで死んだ。

一八九八年 — ゾラの介入

ドレフュス事件で、エミール・ゾラは一八九八年一月、新聞に大統領宛の公開状を発表した。冒頭の語を取って「私は弾劾する」と呼ばれる。軍が無実のユダヤ人将校を陥れたと名指しで告発し、名誉毀損で有罪となってイギリスへ亡命した。

作家が自分の名声を賭けて政治的不正に介入する、という型はここで完成した。 サルトルもカミュもこの型の上に立っている。ゾラは一九〇二年、自宅で一酸化炭素中毒により死亡した。暗殺説が消えていない。

象徴主義 — 意味を溶かす

自然主義が「見えるものを全部書く」方向に進んだのと同時に、正反対の運動が走っていた。

ボードレール — 起点

シャルル・ボードレール悪の華で、現実の事物が別の何かの記号であるという考えを提示した。有名な詩篇『照応』では、香りと色と音が互いに対応し合っている。詩は事物を描写するのではなく、事物の背後にあるものへ通じる。ここから象徴主義が出てくる。

彼は同時に、都会の群衆・娼婦・腐乱死体といった、詩の主題として認められていなかったものを詩に入れた。美は道徳から独立しているという立場である。一八六七年、四十六歳で死去。

ヴェルレーヌとランボー

ポール・ヴェルレーヌは音楽性を最優先した詩を書いた。「何よりもまず音楽を」と彼は書いている。

アルチュール・ランボーは十六歳でヴェルレーヌに手紙を送り、パリに出た。二人は関係を持ち、放浪し、一八七三年にブリュッセルでヴェルレーヌがランボーを銃で撃つ事件に至る。ヴェルレーヌは投獄された。その直後にランボーが書いたのが[[une-saison-en-enfer]]である。

ランボーの詩論は「見者の手紙」に書かれている。詩人はあらゆる感覚を狂わせることで未知に到達する。「私とは一個の他者である」という一文が有名である。

そして彼は二十歳前後で文学を完全に捨てた。 その後アフリカで武器商人として働き、一八九一年、三十七歳で死んだ。文学に関わったのは五年に満たない。

マラルメ — 極北

ステファヌ・マラルメは生涯を教師として過ごしながら、火曜日に自宅に若い詩人を集めた。この「火曜会」から次の世代が出ている。

彼が目指したのは、事物の名前を言わずに、その事物の効果だけを立ち上げる詩である。「花、と私が言うと、私の声がどんな輪郭も追放するその忘却の外に、あらゆる花束に不在のものが、音楽的に立ち上がる」という趣旨のことを書いている。詩は世界を指し示す道具であることをやめ、言葉が言葉として自立する。二十世紀の詩とその理論は、ほとんどここから出発している。

一八八四年と一八八六年

この世紀をどう読むか

四つの流派を順番に暗記するのではなく、三つの運動が並走したと捉えるほうが実態に近い。

運動やろうとしたこと到達点
規則の破壊古典主義の制約を外すロマン主義。1830年に決着
世界の記述社会全体を書き切るオノレ・ド・バルザックギュスターヴ・フローベールエミール・ゾラ
言葉の自律詩を意味から解放するシャルル・ボードレールアルチュール・ランボーステファヌ・マラルメ

そして三つ目が二十世紀へ直結する。マルセル・プルーストアンドレ・ブルトンも、言葉が現実を写す道具ではないという前提の上に立っている。通史で述べた「書くことそのものが主題になる」という二十世紀の性格は、この世紀の最後の三十年で準備された。

何から読むか

一冊だけ選ぶならボヴァリー夫人を勧める。この世紀の技術的な達成(自由間接話法)と主題(幻滅)が両方入っていて、しかも短い。

詩から入りたい場合は悪の華だが、訳によって印象が大きく変わるので注意が要る。韻文の香りを取るか、意味の正確さを取るかで選択が分かれる。

長篇の面白さで入るなら赤と黒。野心を持った青年の話なので、二百年前の小説であることを忘れて読める。

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