ジェイムズ・ジョイス

原綴
James Joyce
生没
1882–1941
出身
アイルランド・ダブリン
イギリス
時代
20世紀以降

生涯

1882年、ダブリン近郊の中産家庭に生まれた。父は収税吏だったが浪費と飲酒で職を失い、一家は転居を繰り返しながら没落していく。ジョイスはイエズス会の学校で厳格なカトリック教育を受け、後にそこから離れた。

ダブリンの大学で近代語を学び、卒業後の1902年にパリへ出る。医学を志すが果たさず、母の危篤で帰国した。1904年6月16日、ノーラ・バーナクルという女性と初めて外出する。この日付が、後にユリシーズの作中の一日として使われた。

同年、ジョイスはノーラとともにアイルランドを離れた。以後、トリエステ、チューリヒ、パリを転々とし、英語教師や事務の職で生計を立てながら書き続ける。生涯の大半を大陸で過ごしたが、作品の舞台は最後までダブリンだった。

目の病に苦しみ、十数回の手術を受けている。晩年は視力をほとんど失った。娘ルチアが統合失調症を発症したことも、大きな負担になった。1941年、チューリヒで手術後の合併症により58歳で死去した。

作風

ジョイスの中心にあるのは「意識の流れ」と呼ばれる方法である。人物の思考を、整理せずに湧いてくるままに書く。文法も途中で崩れ、連想が飛び、外界の音や広告の文句が思考に混ざり込む。ユリシーズの最終章は、句読点のない長大な独白として書かれている。

各章の文体を変える手法も用いた。ユリシーズでは、新聞記事、教義問答、戯曲の台本、通俗恋愛小説のパロディ、英語散文史の模倣といった具合に、章ごとに書き方が入れ替わる。一つの文体で通すという前提そのものを外している。

構造は緻密である。ユリシーズホメロスオデュッセイアの各挿話に対応させて組み立てられ、各章に人体の器官、色、学芸、象徴が割り当てられている。十年をかけた放浪の物語が、ダブリンの一日に圧縮されている。

日常の細部を書き尽くす態度も特徴である。食事、排泄、葬儀、酒場の会話、広告の文句。英雄的な出来事は起きず、平凡な広告取りの一日が叙事詩の規模で書かれる。

最後の『フィネガンズ・ウェイク』では、複数の言語を混ぜた造語で書かれており、通常の意味で「読む」ことが困難な作品になっている。

作品

『ダブリン市民』(1914年)

15篇からなる短篇集である。文体は平明で、後の実験の出発点にある関心——都市、麻痺、日常のなかの啓示——が分かる。最後の一篇「死者たち」は、雪の降る夜に妻の過去を知る男を描いた中篇で、単独で高く評価されている。

『若い芸術家の肖像』(1916年)

自伝的な長篇で、少年が信仰と国と家族から離れて芸術家になるまでを描く。文体が主人公の成長に合わせて変化していく。

ユリシーズ(1922年)

代表作である。1904年6月16日のダブリンを舞台に、広告取りのレオポルド・ブルーム、その妻モリー、青年スティーヴンの一日を追う。註と手引きなしに読み通すのは難しく、章ごとの解説がある版か、解説書の併用が現実的である。

『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)

17年をかけた最後の作品で、極端な言語実験にあたる。

文学史における立ち位置と影響

ジョイスはモダニズムを代表する。ユリシーズは、同じ1922年に出たT・S・エリオット荒地と並んで、モダニズムの記念碑とされる。同じ年にプルーストが没しており、意識の流れという方法が複数の国で同時期に現れたことになる。

小説が何を書けるかという範囲を広げた点が大きい。事件の起きない一日、排泄や性欲を含む身体、頭のなかを通り過ぎる断片。それまで書かれなかったものが書けることを示した。

ユリシーズは刊行当初、猥褻を理由にアメリカとイギリスで発禁になった。1933年のアメリカでの判決で解禁され、この判決は表現の自由をめぐる重要な前例になっている。

英文学のなかでの位置は単純ではない。ジョイスはアイルランド人であり、英文学史はこの作家を自分のものとして扱ってきたが、当人はイギリスによる支配を強く意識していた。イェイツらのアイルランド文芸復興とも距離を取り、国民的な運動に加わることを拒んでいる。

作中の一日である6月16日は「ブルームズデイ」と呼ばれ、今日もダブリンをはじめ各地で記念行事が行われている。日本では丸谷才一らによる翻訳がある。

作品

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