日の名残り

原題
The Remains of the Day
作者
カズオ・イシグロ
成立
1989
イギリス
時代
20世紀以降

概要

1989年に刊行された長篇小説である。作者カズオ・イシグロは日本に生まれ、幼くしてイギリスに渡り、英語で書く作家にあたる。この作品でイギリスで最も権威のあるブッカー賞を受賞した。

主人公はスティーヴンズという老いた執事である。イギリスの大邸宅ダーリントン・ホールで長年勤めてきた。品格ある執事とは何かを常に自分に問い、職業への献身を生きがいとしてきた人物である。

物語は、スティーヴンズが六日間の休暇を得て、車でイングランド西部へ旅に出るところから始まる。目的は、かつて同じ屋敷で働いた女中頭ミス・ケントンを訪ねることである。その道中で半生が回想され、この忠実な執事が何を犠牲にし、何から目をそらしてきたかが少しずつ明らかになっていく。

全篇がスティーヴンズ自身の語りで書かれている。だがその語りは自分に都合よくできており、読者は語られた内容ではなく、その言い方の不自然さから本当のことを読み取ることになる。と呼ばれる手法である。

イシグロは1954年、長崎の生まれである。五歳のとき家族とイギリスに渡った。日本を出自に持ちながら英語で書く作家で、記憶と自己欺瞞を繰り返し主題にしてきた。

この作品はイギリスの階級社会と執事という職業を題材にしているが、本人はそこに普遍的な主題を込めたと語っている。人が自分の人生を無駄にしたことにどう向き合うか、という問題である。イギリスらしさを描くことが目的ではない、という説明を繰り返している。

2017年、イシグロはノーベル文学賞を受賞した。

文学史における評価と影響

20世紀後半のイギリス小説を代表する作品の一つである。

核心にある技法がにあたる。スティーヴンズは自分の人生を語りながら、その真実からたえず目をそらす。献身を誇り、主人への忠誠を正当化する。だが読者は、語りの不自然な力みや、話題を変える箇所から、別のことを読み取る。献身のために愛を逃し、忠誠のために判断を放棄したという事実である。語り手が認めない真実を読者が悟る、というこのずれが深い悲哀を生む。

主題としては、職業への献身の意味が問われている。スティーヴンズは完璧な執事であろうとした。だがその品格へのこだわりが、感情も判断力も奪った。自分で考えることをやめて主人に忠実であろうとした結果、悪に加担することになる。命令に従っただけだ、という姿勢の危うさが静かに突かれている。ナチスの時代に多くの人が直面した問題でもある。

人はどうやって無駄にした人生と向き合うのか、という問いも作品を支える。スティーヴンズは最後までそれを直視しきれない。だがその直視しきれなさと、それでも前を向こうとする健気さのほうが、かえって読者の胸を打つ。

1993年に映画化され、アンソニー・ホプキンスがスティーヴンズを演じた。この映画も高く評価されている。

日本では翻訳が読める。イシグロの代表作として、また記憶と自己欺瞞を扱った現代文学として広く読まれている。

あらすじ

1956年。老執事スティーヴンズは、屋敷を買い取った新しいアメリカ人の雇い主から休暇を勧められ、車を借りて六日間の旅に出る。二十年ぶりにミス・ケントンに会うためである。手紙に屋敷へ戻りたそうな気配があったので、人手不足を補うために復職を頼む、というのが表向きの理由になっている。

イングランドの田園を進みながら、過去の記憶が次々によみがえる。

回想の中心にいるのは、かつての雇い主ダーリントン卿である。高潔な理想家だった。第一次大戦後、ドイツに課された賠償が過酷すぎると考え、同情から関係者を屋敷に招くようになる。それが次第にナチス・ドイツへの接近になり、戦後は対独宥和に加担した人物として名誉を失った。屋敷では要人の密談が繰り返されている。スティーヴンズはその政治的な意味を考えず、完璧な給仕に徹した。主人がユダヤ人の使用人を解雇するよう命じたときも、疑問を口に出さず従っている。

そしてミス・ケントンとの記憶がある。二人のあいだには互いへの感情がはっきり芽生えていた。だがスティーヴンズは執事としての品格にこだわり、それを表に出さない。ミス・ケントンが近づこうとするたび、職業的な冷静さの殻に引きこもった。同じ屋敷で働いていた父が階上で危篤になった夜も、下では重要な晩餐会が続いており、スティーヴンズは給仕を離れなかった。父はそのまま死ぬ。本人はこれを、職務を全うした夜として誇りに数えている。心を閉ざされ続けたミス・ケントンは、やがて別の男と結婚して屋敷を去った。

旅の終わりに二人は再会する。だが遅すぎた。ミス・ケントンは結婚生活を続けることを選ぶ。別れ際、あなたと別の人生がありえたかもしれないと考えることがある、と静かに漏らす。それを聞いてスティーヴンズは、初めて自分の胸が張り裂けるのを感じる。

夕暮れの桟橋で一人になり、これまでを思う。仕えた主人は誤った選択をして不名誉のうちに死に、自分は愛を逃した。それでもスティーヴンズは、残された日々を前向きに生きようと思い直す。新しい主人にうまく仕えるため、冗談を言う練習でもしようか、と考えるところで物語は終わる。後悔を抱えながら、それを最後まで直視しきれない。

作者

登場する文学史