イギリス文学 中世
通史では、この時代を「負けて、取り戻す」と要約した。ここではその中身を開く。
まず押さえるべきは、この時代の前半には「英語文学」がほとんど存在しないということである。他国の中世文学史が作品の連なりとして書けるのに対し、イギリスの中世は空白から始まる。
一〇六六年に何が起きたか
ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服した。支配層が入れ替わり、言語の地位が三層に分かれる。
| 言語 | 使われた場 |
|---|---|
| ラテン語 | 教会、学問、公文書 |
| フランス語 | 宮廷、貴族、法廷 |
| 英語 | 農民、都市の下層 |
英語は、支配される側の話し言葉に落ちた。 書く価値のある言語とは見なされず、この状態がおよそ三百年続く。
この経験が英語に二つのものを残した。
一つは語彙の二層構造である。生きている動物はゲルマン系の語で呼ばれ(cow, pig, sheep)、食卓に出た肉はフランス語系で呼ばれる(beef, pork, mutton)。育てたのは英語を話す農民で、食べたのはフランス語を話す領主だった。征服の記録が、今日の英語の単語の中に化石として残っている。
もう一つは外来語を際限なく飲み込む体質である。負けた言語は純血を守れない。結果として英語は、ヨーロッパの主要言語の中でも異常に語彙が多い言語になった。後のウィリアム・シェイクスピアが自在に語を作れたのも、この雑種性の上に立っている。
征服前の英語 — 読めない祖先
征服以前の英語(古英語)で書かれた最大の作品がベーオウルフである。写本は十世紀末から十一世紀初めのものとされるが、成立時期には諸説あり、断定は避けるべきである。
内容は、怪物グレンデルとその母、そして竜と戦う英雄の生涯である。形式は頭韻詩で、行の中で同じ子音を繰り返すことでリズムを作る。押韻(脚韻)ではない点が、後の英詩と決定的に違う。
今日の英語話者はこれを読めない。 語彙も文法も現代英語とかけ離れており、外国語として学習する必要がある。同じ「英語」の名で呼ばれていても、連続した読書体験としては断絶している。
十四世紀 — 英語が戻ってくる
三百年の空白を経て、英語が文学の言語として復帰する。背景には政治的な事情がある。百年戦争でフランスと敵対したことにより、フランス語が「敵の言語」になった。 一三六二年には法廷での英語使用を認める法律が出ている。
この時期に三つの方向が同時に現れる。
ウィリアム・ラングランドの『農夫ピアズの幻想』は頭韻詩で書かれた宗教的・社会的な寓意詩である。腐敗した聖職者や貪欲な役人が批判され、社会批判の文学として読まれた。 古英語以来の頭韻の伝統がここで復活している。
『サー・ガウェインと緑の騎士』(作者不詳)は、アーサー王の騎士が首を斬られても死なない緑の騎士と契約を結ぶ物語である。頭韻と脚韻を組み合わせた高度な技巧で書かれ、中世英文学の中で最も完成度が高いとされる。
そしてジェフリー・チョーサーである。
チョーサー — 標準の英語を決めた男
カンタベリー物語(一三八七年頃から、未完)は、カンタベリーへの巡礼に集まった三十人ほどが、順番に話を語っていくという構成をとる。
枠物語の形式はボッカッチョのデカメロンの影響下にある。チョーサーはイタリアへ渡航しており、そこでペトラルカやボッカッチョの作品に触れたと考えられている。
だが決定的な違いがある。デカメロンの語り手が全員貴族であるのに対し、カンタベリー物語の語り手は身分がばらばらである。 騎士がいて、粉屋がいて、修道女がいて、幾度も結婚した女がいる。そしてそれぞれの身分にふさわしい言葉で喋る。
騎士は格調高い恋愛物語を語り、粉屋は下品な笑話を語る。語りの内容が語り手の性格を暴くという構造になっており、これは近代小説の人物造形に近い。
もう一つ重要なのが言語の選択である。チョーサーはロンドンの英語で書いた。彼が権威ある作家になったことで、この方言が「標準の英語」になっていく。 言語の標準を、国家機関ではなく一人の作家が事実上決めた例である。
フランスでは同じ役割を国家が担った。一六三五年のアカデミー・フランセーズがそれである。イギリスにはついにそのような機関が生まれなかったという違いは、両国の文学の性格に長く影響している。
中世の終わり — 印刷術とアーサー王
一四七六年、ウィリアム・キャクストンがイングランドに印刷機を持ち込んだ。書物が写本から印刷物へ変わる。
キャクストンが刊行したものの一つが、トマス・マロリーのアーサー王の死(一四八五年)である。フランス語の散文物語などを素材に、アーサー王伝説を一つの物語としてまとめた作品で、今日われわれが知るアーサー王物語の形は、ほぼこの本に由来する。
マロリー自身は騎士でありながら、強盗・暴行などの罪で繰り返し投獄された人物とされる。獄中でこの作品を書いたと考えられているが、経歴には不明な点が多い。
この時代をどう読むか
| 中身 | |
|---|---|
| 言語の敗北 | 三百年、英語は書く言語ではなかった。語彙の二層構造がその記録 |
| 断絶 | ベーオウルフは現代英語話者に読めない。連続した伝統ではない |
| 標準語の成立 | ジェフリー・チョーサーのロンドン方言が事実上の標準になった |
| 印刷術 | 写本から印刷へ。アーサー王の死がその最初期の成果 |
そして次の世紀、この言語は劣等感を捨てて世界最強の文学語になっていく。 ウィリアム・シェイクスピアが現れるまで、あと百年である。