フォースタス博士

原題
Doctor Faustus
作者
クリストファー・マーロウ
成立
1592頃
イギリス
時代
ルネサンス

概要

短い悲劇である。二時間ほどで上演できる。無韻詩——脚韻を踏まない荘重な韻文——で書かれ、その響きが後のシェイクスピアの劇の土台になった。

主人公フォースタスはあらゆる学問を究めた学者である。だが論理学も医学も法学も神学も自分を満足させない。より大きな力を求めて魔術に手を出し、悪魔と契約する。 二十四年のあいだ悪魔メフィストフィリスを従えて望むものすべてを手に入れ、その代償に自分の魂を渡す、という契約である。

読んで意外なのは、手に入れた力の使い道である。宇宙の仕組みを問うのは最初だけで、あとはローマ法王をからかい、皇帝の前で幻を見せ、たわいのないいたずらに費やされる。壮大な野心から始まった契約が、二十四年かけて縮んでいく。

素材はドイツのファウスト伝説にある。16世紀のドイツで実在の人物をめぐる伝説が生まれ、民衆本にまとめられた。マーロウはその英訳をもとにこの戯曲を書いている。ゲーテファウストより二百年以上早い。

マーロウはシェイクスピアとまったく同じ年に生まれた。ケンブリッジ大学で学び、若くして劇作家として名を上げる。同時に政府の密偵だったともされ、無神論者の疑いをかけられて危険な立場にあった。1593年、酒場での喧嘩が原因で刺殺される。二十九歳だった。 その死をめぐっては、単なる喧嘩ではなく政治的な暗殺だったとする説もある。

戯曲は1604年版と1616年版の二つで伝わっており、内容にかなりの差がある。どちらがマーロウ本来のテクストに近いかは決着しておらず、他者の加筆も含まれているとみられる。

文学史における評価と影響

エリザベス朝演劇の初期を代表する悲劇にあたる。シェイクスピアが本格的に活動を始める直前の時期で、マーロウの無韻詩と強烈な個性を持つ主人公は、その先駆となった。

主題は知識への渇望とその代償である。フォースタスはルネサンスの人間の際限のない知識欲を体現している。神の定めた限界を越えようとする人間。 その野心は壮大であると同時に破滅的にあたる。中世的な従順を破って、人間が自分の力ですべてを手にしようとする。この野心の光と影が同時に書かれている。

ゲーテファウストとの対比がしばしば論じられる。ゲーテのファウストは救済される。マーロウのフォースタスは地獄に堕ちる。 マーロウの作品は、悪魔と契約した者は罰せられなければならないという中世の道徳劇の枠組みを色濃く残している。同じ伝説が、二百年の隔たりによって正反対の結末に至った。

最後の一夜のフォースタスの独白は、英語演劇でも屈指の名場面とされる。過ぎゆく時間への恐怖、悔悛と絶望のあいだで揺れる魂の苦しみが、切迫した言葉で語られる。

あらすじ

学者フォースタスは書斎で、これまで学んできた学問を次々に見限る。論理学、医学、法学、神学。どれも自分を満足させない。より大きな知識と力を求めて、禁じられた魔術に向かう。

魔術を試みたフォースタスの前に悪魔メフィストフィリスが現れる。フォースタスは契約を持ちかける。二十四年間仕えて望むものを叶えること。その代わり、期限が来たら自分の魂を地獄の王ルシファーに引き渡すこと。契約はフォースタス自身の血で署名される。 血が固まって書けなくなるという不吉な前兆があるが、意に介さない。

契約を結んだフォースタスは、宇宙の仕組み、天文、地理をメフィストフィリスに尋ねる。だが神に関わる問いには答えが返らない。フォースタスはしばしば悔い改めて神に立ち返ろうとする。善き天使と悪しき天使が、その心を両側から誘う。 だがそのたびに、悪魔の脅しと快楽の誘惑によって思いとどまる。

得られた力は次第に些細なことに費やされていく。ローマ法王をからかい、皇帝の前で大王アレクサンドロスの幻を呼び出す。壮大な知識欲から始まった契約が、見世物といたずらに堕していく。

そして、古代の絶世の美女ヘレネの幻を呼び出し、その幻に口づけする。これが千の船を出帆させた顔かという名高い台詞が、ここで語られる。

いよいよ二十四年が満ちる。最後の一夜、フォースタスは深い恐怖と後悔に襲われる。時間が過ぎていくのを止められない。ゆっくり走れ、天の馬たちよ、と訴える。だが時計は無情に進む。神に赦しを乞おうとするが、もはや遅い。真夜中、悪魔たちが現れてフォースタスを地獄へ引きずり込む。翌朝、学者たちが引き裂かれた亡骸を発見するところで劇は終わる。

作者

登場する文学史