ジェイン・オースティン

- 原綴
- Jane Austen
- 生没
- 1775–1817
- 出身
- ハンプシャー州スティーヴントン
- 国
- イギリス
- 時代
- ロマン主義
生涯
1775年、ハンプシャーの村スティーヴントンに、牧師の家の七番目の子として生まれた。学校教育はごく短く、父の蔵書と家族の会話のなかで育っている。姉カサンドラとは生涯を通じて最も近く、大量の手紙を交わした。
10代から家族に読み聞かせる小説を書き始めた。20歳前後で『分別と多感』高慢と偏見の原型を書いているが、出版には至っていない。1801年に父が引退して一家はバースへ移り、この時期は執筆がほとんど途絶えた。1805年に父が死ぬと、母と姉との三人は経済的に不安定になり、兄たちの援助で暮らす。
1809年、兄の所有するチョートンの家に落ち着いてから、執筆が再開された。1811年に『分別と多感』が「あるレディによる」という匿名で出版され、以後、生前に四作が刊行される。名前が公にされたのは死後である。
1817年、41歳で死去した。死因は特定されていない。二作が死後に刊行されている。生涯独身で、一度は求婚を受け入れたが翌朝に撤回した、という逸話が残る。
作風
オースティンが書いたのは、田舎の中流階級の日常だけである。舞台は限られた地域、主題は結婚と財産と階級。事件らしい事件は起こらない。本人は自分の仕事を、二インチ幅の象牙に細い筆で描くようなものだ、と姪への手紙に書いた。
その狭い範囲で、会話と自由間接話法によって心理を精密に描く。自由間接話法とは、地の文でありながら登場人物の心の声が混ざる書き方を指す。語り手は人物の思考に寄り添いながら、同時に距離を取って皮肉る。読者は、その人物が自分を正しいと思い込んでいることを、本人より先に見て取る。この技術はフローベールより半世紀早い。
皮肉は冒頭から始まる。高慢と偏見は「相当の財産を持つ独身男性は妻を必要としている、というのは世に広く認められた真理である」という一文で始まる。誰にとっての真理なのかは書かれない。娘を嫁がせたい母親たちの思い込みが、普遍の真理として提示される。
結婚を扱うが、恋愛小説として書かれてはいない。当時の中流階級の女性には職業がなく、相続からも外される場合が多かった。誰と結婚するかが、そのまま一生の経済的な条件を決める。オースティンはそこを冷静に書いている。
作品
『分別と多感』(1811年)
最初に出版された作品で、対照的な姉妹を通じて理性と感情を扱う。
高慢と偏見(1813年)
代表作である。中流の家の次女エリザベスと、裕福で高慢に見える紳士ダーシーが、互いへの誤解を解いていく。筋が明快で会話が面白く、皮肉も分かりやすいため、入口として定番である。
『マンスフィールド・パーク』(1814年)
貧しい親戚の家から引き取られた少女を主人公にする。作品のなかで最も評価が分かれる。
『エマ』(1815年)
他人の縁組を取り持とうとして失敗を重ねる裕福な娘を描く。語りの技術が最も高度とされるが、主人公の思い込みを読者が見抜く構造のため、慣れが要る。
『説得』(1817年、死後刊行)
円熟期の作品で、若い頃に周囲の説得で婚約を解消した女性が、八年後に相手と再会する。
文学史における立ち位置と影響
オースティンはロマン主義の時代に、ロマン主義と無縁の小説を書いた。バイロンらが情熱と異国と反逆を歌っていた時期に、オースティンは応接間の会話を書いている。同じ時代の作家を一つの流派で括ることの危うさを示す例である。
ナポレオン戦争のさなかに書かれていながら、作品に戦争はほとんど出てこない。兄二人が海軍にいたにもかかわらずである。これを視野の限界と見るか、自分の知っている範囲だけを書くという意図的な選択と見るかで、評価が分かれてきた。
小説技法の面では、自由間接話法の早い使用例として位置が確立している。誰の判断なのかを明示しないまま人物の内面を書く方法は、19世紀後半にフローベールが理論的に徹底し、20世紀の小説の標準になった。オースティンはそれを、理論としてではなく実作のなかで用いている。
19世紀を通じて評価は限定的だった。同時代のエミリー・ブロンテの姉シャーロットは、オースティンには情熱がないと批判している。評価が上がるのは20世紀に入ってからで、現在では英語圏で最も読まれ、最も映像化される小説家の一人になっている。