ウィリアム・ワーズワース

白いクラヴァットを結び、椅子に座る28歳のウィリアム・ワーズワースの油彩肖像画。
ウィリアム・シューター筆(1798年)
原綴
William Wordsworth
生没
1770–1850
出身
カンバーランド州コッカマス(湖水地方)
イギリス
時代
ロマン主義

生涯

1770年、イングランド北西部の湖水地方に生まれた。8歳で母を、13歳で父を失い、親族のもとで育っている。ケンブリッジ大学に学んだ。

若い頃、フランス革命に熱狂した。現地に渡って共和派と交わり、後に「あの夜明けに生きていることは至福だった」という趣旨の一行を書いている。フランス人女性アネット・ヴァロンとのあいだに娘をもうけたが、戦争によって引き裂かれた。この事実は長く伏せられていた。

革命が恐怖政治に転じると幻滅する。帰国後、妹ドロシーとともに暮らし、コウルリッジと親交を結んだ。1798年、二人の共著抒情民謡集を刊行する。

以後は湖水地方に定住し、「湖畔詩人」の一人と呼ばれた。次第に保守化していき、晩年には体制側の人物になる。印紙配給官という官職に就き、1843年に桂冠詩人となった。1850年、80歳で死去している。

作風

ワーズワースは、詩に使ってよい言葉と、書いてよい主題の両方を広げた。その主張は抒情民謡集第二版(1800年)に付した序文に述べられており、イギリス・ロマン主義の宣言文とされる。

第一の主張は、詩の言葉を日常の言葉にすることである。18世紀の詩は詩専用の語彙で書かれていた。「魚」を「鱗ある種族」と言い換えるような、装飾的で人工的な言い回し(詩的措辞)が規範だった。ワーズワースはこれを否定し、普通の人々が実際に使う言葉を選ぶと宣言する。詩人と一般の人のあいだに言語の違いはない、という立場である。

第二の主張は、主題を庶民と自然へ移すことである。古典の神話や高貴な人物ではなく、農夫、行商人、乞食、羊飼いを書く。田舎の生活を選ぶ理由も序文で述べており、そこでは人間の基本的な感情が飾られずに現れるから、としている。

「詩とは、強い感情の自然な溢れ出しである」という定義も、この序文にある。ただしすぐに条件が付く。それは「静けさのなかで回想された情動」から生まれる、と。その場の激情をそのまま書くのではなく、後から思い出したときに再構成されるものだという主張である。

この「回想」の重視が、詩の骨格になっている。「ティンターン修道院」では、五年ぶりに同じ谷を訪れ、前に来たときの自分と今の自分を比べる。「水仙」では、湖畔で見た花の記憶が、後になって心のなかで蘇る。見た瞬間ではなく、思い出す瞬間が詩になる。

作品

抒情民謡集(1798年、コウルリッジと共著)

イギリス・ロマン派の出発点とされる。第二版の序文が宣言文にあたる。

「ティンターン修道院」(1798年)は、同じ場所を再訪して自分の変化を測る詩である。

「水仙(われは雲のごとくさまよいぬ)」は、最もよく知られた詩である。妹ドロシーの日記の記述が下敷きにある。

「幼年時代を回想して不死を知る頌」は、子どもは世界を輝いて見ているが、大人になるとその光が失われる、という喪失と、代わりに得るものを歌う。

『序曲(プレリュード)』(1850年、死後刊行)を最大の仕事とする評価が多い。一人の詩人の精神がどう形成されたかを自伝的に書いた長篇詩で、フランス革命への熱狂と幻滅も含まれる。生涯にわたって書き直され続けたため、若い頃の版と晩年の版で内容が変わっており、どちらを読むかで印象が異なる。

文学史における立ち位置と影響

抒情民謡集の刊行年である1798年を、イギリス・ロマン派の始まりとする区分が広く使われている。

主張は後の詩に長く効いた。日常の言葉で詩を書くことは、以後の英語詩の前提になる。自然を主題にし、自然を通して自己を語ることも同様である。子ども時代と記憶という主題は、プルーストに至る系譜の一つの源として語られることがある。

同時に、批判も繰り返されてきた。晩年の作品の質の低下、保守化、そして「日常の言葉」という主張と実作の乖離である。実際の詩はかなり格調高く、序文どおりではない。

政治的な転向は、若い世代から激しく批判された。シェリーは「ワーズワースに寄せる」という詩で、あなたは我々を捨てた、という趣旨の失望を書いている。バイロンも揶揄した。

妹ドロシーの存在も大きい。彼女の日記が兄の詩の素材になっており、近年は彼女自身の書き手としての評価が進んでいる。

日本では明治期に紹介され、自然を歌う詩の系譜に影響した。

作品

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