ジョン・ミルトン

- 原綴
- John Milton
- 生没
- 1608–1674
- 出身
- ロンドン
- 国
- イギリス
- 時代
- ルネサンス
生涯
1608年、ロンドンの公証人の家に生まれた。父は音楽にも通じた人物で、息子の教育に金を惜しまなかった。ケンブリッジ大学を出た後、六年ほど父の家にこもって古典を読み続けている。この期間の徹底した読書が、後の作品の土台になった。
1638年から一年余り、イタリアを旅した。フィレンツェで軟禁中のガリレオを訪ねたと自ら記している。
帰国後、清教徒革命が起きる。ミルトンは議会派に立ち、パンフレットを書きまくった。教会制度の批判、離婚の自由、出版の検閲への反対。1649年にチャールズ一世が処刑されると、王の処刑を正当化する論を書き、共和政(クロムウェル政権)のラテン語秘書官になる。外交文書を担当する要職である。
この時期に視力を失っていった。1652年頃、40代半ばで完全に失明する。それでも公務を続け、口述で文書を作らせた。
1660年、王政復古。共和政の関係者は処刑・投獄された。ミルトンは著書を焼かれ、一時投獄されたが、命は助かっている。失脚し、盲目で、政治的な敗者として、失楽園を書いた。自分では書けないため、娘や助手に口述している。朝のうちに頭のなかで作った行を、人が来るのを待って書き取らせたと伝えられる。1674年、65歳で死去した。
作風
ミルトンは、英語で古代の叙事詩に匹敵する長篇を書こうとした。失楽園は全12巻、一万行を超える。主題は聖書の創世記——サタンの反逆と、アダムとイヴの楽園追放である。
これをホメロスとウェルギリウスの形式で書いた。冒頭の詩神への呼びかけ、話の中途から始める構成、壮大な直喩。古典叙事詩の作法を、キリスト教の主題に適用している。
韻を踏まない無韻詩(ブランクヴァース)を選んだのも意図的である。序文で、押韻は野蛮な時代の遺物だと切って捨てた。
文体は荘重で、ラテン語風の語順を多用する。主語と述語が遠く離れ、修飾が幾重にも重なる。造語も多い。この文体は「ミルトン的(Miltonic)」と呼ばれるほど独自のものになった。
最大の論点はサタンの造形である。敗れて地獄に落ちてなお屈せず、天国で仕えるより地獄で支配するほうがましだという趣旨の台詞を吐く。演説がうまく、意志が強く、仲間を鼓舞する。一方で神の側は理屈っぽく、権威的に描かれる。「ミルトンは知らずに悪魔の側についていた」というブレイクの趣旨の指摘が有名である。
ただしこれが作者の意図だったかは別問題である。読者を誘惑し、その誘惑に乗ったことを自覚させる仕掛けだ、という読み方もあり、解釈は定まっていない。
作品
『アレオパジティカ』(1644年)
出版の事前検閲に反対する論である。真理と虚偽を自由に戦わせよ、真理が負けたためしがあるか、という趣旨の主張は、言論の自由をめぐる古典的な文献として今日も引かれる。
失楽園(1667年)
主著である。
『復楽園』(1671年)
続篇で、荒野におけるキリストの誘惑を扱う。
『闘士サムソン』(1671年)
劇詩である。捕らわれ、盲目にされたサムソンを主人公にしており、作者自身の境遇との重なりが指摘される。
文学史における立ち位置と影響
ミルトンはシェイクスピアと並ぶ英文学の二大巨頭とされる。英語という言語に与えた影響が大きく、その語彙と構文は後世の詩の規範になった。
その影響は重すぎるとも言われた。18世紀の詩人は競って文体を模倣し、ワーズワースらロマン派は、そこから日常の言葉へ戻ろうとする。T・S・エリオットは20世紀に「ミルトンの影響は英詩に害を与えた」という趣旨の批判を展開し、後に評価を修正した。この論争自体が、その存在の大きさを示している。
サタン像の受容も特筆される。ロマン主義はサタンを英雄として読み、バイロンやシェリーがその線を継いだ。権威に屈しない反逆者という像は、以後の文学に長く影響している。
政治的な文脈でも読まれ続けている。検閲反対、王権への抵抗、共和主義。アメリカ独立の時期の思想家たちが参照した。
日本では明治期から訳され、夏目漱石が大学の講義で扱っている。