カズオ・イシグロ
- 原綴
- Kazuo Ishiguro
- 生没
- 1954–
- 出身
- 長崎市
- 国
- イギリス
- 時代
- 20世紀以降
生涯
1954年、長崎市に生まれた。5歳のとき、海洋学者である父がイギリスに招かれ、一家で渡英した。当初は数年で帰る予定だったという。
イングランド南部のギルフォードで育ち、ケント大学で英文学と哲学を学んだ。イースト・アングリア大学の創作科で修士号を取得している。大学卒業後の一時期、ホームレス支援の福祉職に就いた。
1982年、最初の長篇『遠い山なみの光』を発表する。1986年の『浮世の画家』でウィットブレッド賞、1989年の日の名残りでブッカー賞を受けた。
日本語はほとんど話さないと述べている。初期二作の日本を舞台にした作品については、記憶のなかの日本、自分が想像で作った日本だと繰り返し説明してきた。取材に基づく日本ではない。日本的な作家という読み方への警戒を、本人が長く表明している。
映画や音楽の仕事もある。長篇の映画脚本を書いており、ジャズ歌手に詞を提供したこともある。若い頃は音楽家を志していた。
2017年、ノーベル文学賞を受賞した。受賞理由は、世界とつながっているという幻想の下にある深淵を、強い感情の力で明らかにした、という趣旨のものだった。
作風
イシグロの小説は、語り手が自分に嘘をつく構造をとる。
多くが一人称である。そしてその語り手は、自分の過去を都合よく編集している。読者は、語り手が語っていない部分から真実を組み立てることになる。
重要なのは、語り手が嘘をついている自覚を持っていないことである。彼らは自分の説明を信じている。自己欺瞞そのものが主題になっている。
問いは作品を通じて共通する。取り返しのつかない選択をしてしまった人間は、その後の人生をどう説明して生きるのか。そして、与えられた条件のなかで人はどう生きるのか。
設定は作品ごとに大きく変わる。戦後の長崎、戦間期のイギリスの屋敷、臓器提供のために作られたクローン、アーサー王伝説後のブリテン、AIを搭載した人形。だが語りの構造は一貫している。
文体は意図的に平明である。翻訳されることを前提に、言語固有の技巧を避けていると本人が語っている。感情の高まりを直接書かず、抑制された叙述のなかに置く。何も起きていないように見える会話に、後から意味が生じる。
作品
『遠い山なみの光』(1982年)
最初の長篇で、イギリスに住む日本人女性が、長崎で過ごした戦後の日々を回想する。
『浮世の画家』(1986年)
戦時中に国策に協力した画家が、戦後にそれをどう語り直すかを書いたものである。
日の名残り(1989年)
代表作である。語り手は英国貴族の屋敷に仕えた執事スティーヴンスで、旅の途上で過去を回想する。スティーヴンスは自分が完璧な執事であったことを語る。だが読者には別のことが見えてくる。仕えた主人はナチス・ドイツの宥和政策に加担していた。屋敷のユダヤ人使用人が解雇されたときも、職務として黙って従った。女中頭ミス・ケントンへの感情を、最後まで職業上の関係として処理した。父が死にかけている場面でも職務を優先した。「品格」という言葉を繰り返し使う。その言葉が、自分が何も選ばなかったことの言い訳として機能している。最後にはほとんど自覚に到達しかけ、そしてすぐに引き返して、残りの日々をどう務めるかの話に戻る。
『充たされざる者』(1995年)
夢の論理で進む長篇で、評価が大きく分かれた作品である。
『わたしを離さないで』(2005年)
臓器提供のために作られたクローンの子どもたちの話である。SFの設定だが、SFの語り口を取らない。語り手キャシーは、寄宿学校での日常と友人関係を懐かしい思い出として淡々と語る。彼らは逃げようとしない。反乱も脱走もなく、自分の運命を受け入れている。
『忘れられた巨人』(2015年)
アーサー王伝説後の時代を舞台に、集団が記憶を失うことの是非を扱う。
『クララとお日さま』(2021年)
AIを搭載した人形の視点から書かれた。
文学史における立ち位置と影響
イシグロは、という方法を最も徹底した作家の一人とされる。コンラッドの語りの二重化から続く系譜の延長にあり、プルーストの記憶の扱いとも並べて論じられる。
ラシュディ、ナイポール、マキューアンらと同世代であり、戦後イギリス文学が多様な出自の書き手によって担われるようになった時期の一角にいる。1983年、雑誌『グランタ』が選んだ「イギリスの若手作家20人」に、この世代がまとめて登場した。
ジャンルを越境する書き手でもある。SF、ファンタジー、探偵小説の枠組みを使いながら、それをジャンル作品として書かない。この方法は、後続の作家がジャンルの区分を跨ぐ際の先例になった。
日の名残りと『わたしを離さないで』はいずれも映画化され、原作の読者を大きく広げた。
日本では、日本生まれの作家という関心から早くに紹介された。ただし本人はその文脈での受容に距離を置いており、イギリス文学の作家として読むのが本人の立場に沿う。