ジェフリー・チョーサー

- 原綴
- Geoffrey Chaucer
- 生没
- 1343頃–1400
- 出身
- ロンドン
- 国
- イギリス
- 時代
- 中世
生涯
1343年頃、ロンドンのワイン商の家に生まれた。貴族ではない。若くして王家に仕える家の小姓となり、以後、生涯を宮廷と行政の世界で過ごした。百年戦争に従軍して捕虜になり、身代金で釈放されたこともある。
外交使節としてイタリアへ二度渡った。1372年と1378年で、この時期にダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョの作品に接した可能性が高い。イタリア文学からの影響が、その後の作風を変えたとされる。
ロンドン港の税関の役人、王領地の管理官といった実務の職に就いている。職業作家ではなく、執筆は公務のかたわらに行われた。晩年は年金を受けたが、収入は不安定だったらしく、王に金銭の融通を願う詩を残している。
1400年に死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。これが後に「詩人のコーナー」と呼ばれる区画の始まりになる。イングランドの詩人が国家的に顕彰される慣習の起点にあたる。
作風
チョーサーは英語で書いた。この選択の意味は、当時の状況を知らないと分からない。1066年のノルマン征服以来、イングランドの支配層はフランス語を話していた。宮廷、法廷、上流社会の言語はフランス語で、学問と教会はラテン語である。英語は、征服された側の民衆の言葉だった。
14世紀にはその状況が変わりつつある。百年戦争によってフランスとの距離ができ、英語の地位が上がり始めていた。チョーサーは、宮廷に仕える身でありながら英語で書いた。しかも用いたのはロンドン方言である。当時の英語は地方ごとの差が大きく、北部と南部では通じないほどだった。
カンタベリー物語では「枠物語」の形式をとる。カンタベリー大聖堂へ向かう巡礼の一行が、道中で順番に話をする。ボッカッチョのデカメロンの影響下にあるが、工夫は語り手の側にある。
登場するのは社会のあらゆる階層である。騎士とその従者、修道院長、托鉢僧、免罪符売り、粉屋、料理人、船長、医者、職人たち。そして五回結婚し、女が男を支配すべきだと堂々と論じるバースの女房。それぞれが自分の身分と性格にふさわしい話をする。騎士は高貴な恋物語を、粉屋は下品な笑い話を語る。
話の内容が語り手自身を明かす仕掛けにもなっている。免罪符売りは、自分が詐欺師であることを得々と説明したうえで、聴衆に免罪符を売りつけようとする。
作品
カンタベリー物語(1387年頃〜)
主著である。未完で、当初の構想では各人が四話ずつ語る予定だったが、書かれたのは24話にとどまる。14世紀イングランド社会の縮図として読める作品であり、同時に、語るという行為そのものを扱った作品でもある。
『トロイルスとクリセイデ』(1380年代)
トロイア戦争を背景にした恋愛長篇詩である。ボッカッチョの作品を下敷きにしている。心理描写の精度で、カンタベリー物語より高く評価する読者もいる。
『鳥たちの議会』『名声の館』は、夢を枠に使った詩である。
文学史における立ち位置と影響
チョーサーは英文学の実質的な出発点として扱われる。それ以前にも英語の文学はあり、ベーオウルフやラングランドの『農夫ピアズ』が知られるが、言語も文化的な連続性も今日の英語からは遠い。チョーサーの英語(中英語)も現代の読者にはそのままでは読みにくいが、註があれば通じる程度の距離である。
ロンドン方言で書いたことが、後の標準英語の基礎になった。ダンテがトスカーナ方言でイタリア語を作ったのと同じ構図である。同じ14世紀に、ヨーロッパの二つの地域で、俗語が文学の言語になる転換が起きたことになる。「英詩の父」という呼称は、この功績による。
多様な語り手を並べ、それぞれの言葉づかいで書くという方法は、小説というジャンルの遠い先駆として論じられることがある。人物が誰であるかによって語りの内容と文体が変わるという発想が、そこにある。
シェイクスピアをはじめ後世の作家が繰り返し参照した。17世紀のドライデンはチョーサーを「英詩の父」と呼び、その作品を当時の英語に翻案している。