16世紀のフランス文学 — ラブレーとモンテーニュ
16世紀のフランス文学を見るとき最初に気づくのは、この世紀が前半と後半でまったく違う顔をしていることである。前半はルネサンスの楽天、人間の可能性への信頼、笑い。後半は宗教戦争、虐殺、不信。同じ百年に収まっているとは思えないほど落差がある。そして重要な作品の多くが、その落差の上に書かれている。
ラテン語で書くのが当然だった時代の、言語の選択
当時、真面目な内容はラテン語で書くものだった。神学も哲学も医学も法学も、学問はすべてラテン語である。フランス語は日常のことばで、格下の言語だった。イギリスでも同じ問題が同じ頃に起きている。モアはユートピアをラテン語で書いた。
これを変えたのは、思想だけではない。二つの現実的な力が働いている。
- 印刷術 — 15世紀後半に普及し、読者層が聖職者・学者の外へ広がった。買い手が読める言語で出す必要が生まれる
- 王権 — 1539年のヴィレル=コトレの勅令で、公文書をフランス語で書くことが定められた。行政の言語としてのフランス語が確立する
文学がフランス語を選んだのは、思想的な決断であると同時に、この市場と制度の変化の上に乗った選択でもあった。
16世紀フランスの主な作品
| 作品 | 発表 | 作者 | 種類 |
|---|---|---|---|
| パンタグリュエル | 1532年 | フランソワ・ラブレー | 物語 |
| ガルガンチュア | 1534年 | フランソワ・ラブレー | 物語 |
| 第三の書 | 1546年 | フランソワ・ラブレー | 物語 |
| 『フランス語の擁護と顕揚』 | 1549年 | ジョアシャン・デュ・ベレー | 宣言文 |
| 『オード集』 | 1550年 | ピエール・ド・ロンサール | 詩集 |
| 『恋愛詩集』 | 1552年 | ピエール・ド・ロンサール | ソネット集 |
| 『哀惜詩集』 | 1558年 | ジョアシャン・デュ・ベレー | ソネット集 |
| エセー | 1580年(初版) | ミシェル・ド・モンテーニュ | 随想 |
ラブレーは、学識と下品な冗談を同じ頁に並べた
ラブレーは修道士であり、医者であり、ギリシャ語を読むの人だった。その人物が巨人の親子の話を書く。パンタグリュエルが1532年、ガルガンチュアが1534年。
内容は雑多を通り越している。古典への言及、教育論、修道院への皮肉、法律の風刺、そして排泄と酒と性の冗談が、区別なく同じ頁に並ぶ。
これは無秩序ではなく攻撃である。高級な内容は高級な形式で、という前提そのものを笑いで解体している。当時のパリ大学神学部は、繰り返しこの著作を弾劾した。
有名なテレームの僧院の挿話では、修道院の規則がただ一つしかない。「汝の欲するところを行え」。 人はもともと善へ向かう性質を持っているのだから、規則で縛る必要がない、という前提に立っている。ルネサンス前半の楽天が、ここに最もはっきり出ている。その楽天は、世紀の後半に打ち砕かれることになる。
プレイヤード派は、フランス語を鍛えよと宣言した
1549年、デュ・ベレーが『フランス語の擁護と顕揚』を発表する。文学史における宣言文の古典である。
主張は明快だった。フランス語は貧しいのではない、耕されていないだけだ。 古代の作家を模倣し、ギリシャ語・ラテン語から語を取り入れ、方言や職人のことばまで動員して、フランス語そのものを古典語の高さまで引き上げよ。この綱領を掲げた七人の詩人の集まりをと呼ぶ。
同時に、中世フランスの詩形式(バラード、ロンドーなど)を古くさいものとして退けた。ヴィヨンまでの伝統を意識的に切り捨てている。
ロンサールが綱領を実作で示し、14行の定型詩であるをフランスに定着させた。ばらの花が今日ひらき、夕暮れには散ってしまう——美しさは束の間だから今を摘め、という主題は、この派が繰り返し歌ったものである。
デュ・ベレー自身はローマに滞在して失望し、故郷への郷愁を歌った『哀惜詩集』を残した。綱領を掲げた当人が、綱領どおりでない個人的な詩でいちばん読み継がれている。
宗教戦争で、前半の楽天が折れた
1562年から1598年まで、フランスはカトリックとプロテスタント(ユグノー)の内戦を八次にわたって繰り返した。
決定的な事件が1572年のサン・バルテルミの虐殺である。パリでプロテスタントが大量に殺され、虐殺は地方へ広がった。犠牲者数は諸説あるが、数千から万に及ぶとされる。
ここでルネサンス前半の楽天が終わる。人間は理性によって善へ向かうという前提が、信仰の名のもとに隣人を殺す現実の前で崩れた。内戦は1598年のナントの勅令で一応の終結をみる。
モンテーニュは、断定しないことを一つの態度にした
モンテーニュは法官を務めた後、三十代で公職を退き、塔の書斎にこもってエセーを書きはじめた。初版1580年。以後、死ぬまで増補を続けている。
エセーという語はもともと「試み」を意味する。モンテーニュの用法が、そのまま今日の「随筆」の意味になった。
方法は独特である。
- 主題は自分自身。 「私自身が私の書物の素材だ」と冒頭近くで断っている
- 結論を出さない。論を進めたうえで反対の例を並べ、そのまま置く
- 書き直さず、書き足す。昔の記述を消さずに後年の考えを継ぎ足すので、矛盾がそのまま残る
なぜこの態度が重要なのか。内戦の時代だからである。確信を持った人間が人を殺していた。 そのなかでモンテーニュは「私は何を知っているか」と問い、断定を留保することそのものを一つの態度として示した。
実践もしている。ボルドー市長として両派の間を調停し、カトリックでありながらプロテスタント側のナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)とも交渉を持った。
16世紀が残したのは、フランス語という選択と「私」という主題
| 起きたこと | |
|---|---|
| 言語の選択 | ラテン語からフランス語へ。印刷と王権がそれを支えた |
| 楽天から不信へ | フランソワ・ラブレーの笑いが、宗教戦争を経てミシェル・ド・モンテーニュの懐疑になる |
| 自分について書く | ミシェル・ド・モンテーニュが、主題としての「私」を作った |
三つ目が二百年後にルソーの告白へ、さらに19世紀のロマン主義へつながっていく。フランス文学が自分自身を素材にし続けるという筋の起点が、ここにある。