ジョン・キーツ

開いた本を前に、頬づえをついて物思いにふけるジョン・キーツの油彩肖像画。
ウィリアム・ヒルトン筆
原綴
John Keats
生没
1795–1821
出身
ロンドン
イギリス
時代
ロマン主義

生涯

1795年、ロンドンの馬車屋の家に生まれた。貴族のバイロン、地主階級のシェリーと違い、中流以下の出身である。

幼くして両親を失った。父は落馬で、母は結核で死んでいる。外科医の見習いとして修業し、資格を得たが、医業を捨てて詩に進んだ。

書いた期間は、およそ1816年から1820年までの五年ほどである。同時代の評価は低かった。有力な雑誌が階級を嘲るような酷評を書き、「ロンドンの下層の詩人(コックニー派)」という侮蔑を投げている。

弟トムを結核で看取り、自分も感染した。医学の知識があったため、最初の喀血を見て自分の死を悟ったと伝えられる。婚約者ファニー・ブローンとは結ばれないまま、療養のためローマへ渡り、そこで1821年に25歳で死去した。

自ら選んだ墓碑銘は、名を刻まないものだった。その名を水に書かれし者、ここに眠る、という趣旨の一句である。シェリーはその死を悼んで長詩『アドネイス』を書いたが、そのシェリー自身も翌年、船の事故で死んでいる。

作風

キーツの詩の特徴は、五感の濃さにある。色、匂い、手ざわり、口のなかの感触。抽象的な思想ではなく、身体で受け取ったものが書かれる。ぶどう酒の一杯を歌うのに、冷たさ、暗い地下蔵、夏の匂い、舌の上での味が積み重ねられる。

同時代のワーズワースが自然から思想を引き出したのに対し、キーツは感覚に留まる。そこが対照的である。

書簡のなかで、自分の考えを二つの語で述べている。一つは「消極的能力(ネガティヴ・ケイパビリティ)」で、事実や理由を性急に求めず、不確かさや疑いのなかに留まっていられる能力を指す。シェイクスピアがこれを最も備えていた、としている。この語は今日、文学の外——教育、心理学、医療、経営——でも使われるようになった。

もう一つが「カメレオン詩人」である。詩人には自己がなく、他のあらゆるものになりきる、という考えで、自分の思想を歌うワーズワース的な詩人像への対抗として提示された。

これらの書簡自体が、英語の文学論の古典として読まれている。

作品

『エンディミオン』(1818年)

長篇詩で、「美しきものは永遠の喜び」という冒頭の一行が知られる。

1819年の一年ほどに代表作が集中しており、この時期は「驚異の年」と呼ばれる。

「ナイチンゲールに寄せる歌」(1819年)は、夜鳴き鶯の声を聞きながらこの世を忘れて鳥の世界へ行きたいと願い、最後に現実へ引き戻される。「私は目覚めているのか、眠っているのか」で終わる。

「ギリシャの壺に寄せる歌」(1819年)は、古代の壺に描かれた恋人たちを歌う。永遠に触れ合えないが、永遠に若い。「聞こえる旋律は甘い、だが聞こえない旋律はもっと甘い」という一行がある。最後の二行「美は真であり、真は美である」については、何を意味し誰が語っているのかをめぐって百年以上議論が続いている。

「秋に寄せて」(1819年)は、実りとその先にある終わりを歌う。技巧の完成度で最高作とする評価が多い。

書簡は、上記の二つの概念を含み、文学論として読まれている。

文学史における立ち位置と影響

キーツの評価は死後に大きく上がった。生前の酷評とは逆に、ヴィクトリア朝の詩人テニスン、中世の絵画に還ろうとした画家たちのラファエル前派、そして道徳より美を上に置く唯美主義のワイルドらが受け継いでいく。「美それ自体」を目的とする系譜の源流に置かれる。

イギリス・ロマン派のなかでの位置は、他の三人と比べると分かりやすい。

中心にあるもの
ウィリアム・ワーズワース自然と、そこから得る思想・記憶
バイロン反逆者としての自我
パーシー・ビッシュ・シェリー政治的な理想と、変革への意志
キーツ感覚そのもの。美の経験

20世紀にはT・S・エリオットが、書簡に示された思考の質を高く評価した。詩そのものより、詩人としての態度が参照される場面も多い。

「夭折した天才」という像が受容に強く働いてきた。そのため作品より生涯が語られやすいという点は、日本の中原中也の受容と似た構造にある。

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