日本通史

日本文学史

日本文学史には、他の国にはあまり見られない特徴がある。この国の文学は、自分の文字を持たないところから始まった。

日本語には固有の文字がなかった。中国から漢字が入ってきて、それを使うしかなかった。だが漢字は中国語を書くための文字であって、語順も文法も違う日本語をそのまま書けない。ここから、外から来た文字と文体をどう作り変えて自分の言葉にするかという問題が始まる。そしてこの問題は、一度も解決されないまま今日まで続いている。

大づかみに言えばこうである。まず漢字を音として借りた。次に、その漢字を崩して仮名という自前の文字を発明した。すると和文と漢文という二つの言語が並立し、書き手は場面によって使い分けるようになった。中世にはその二つが混じった文体が生まれ、近世に定着する。そして明治になると、今度は西洋の文体が入ってきて、同じ問題が最初からやり直しになった。

日本文学史は、輸入した道具を作り変えて自分のものにする作業の、千三百年分の記録である。 以下、その過程を追う。

上代 — 漢字を音として使う

古事記は七一二年に成立した。日本最古の書物とされるが、書かれているのは日本語のようで日本語でない、奇妙な文章である。漢文で書こうとしながら、固有名詞や歌の部分だけは漢字を音として当てて日本語を残している。神の名前や歌は、漢文に訳してしまうと意味がなくなるからである。

この「漢字を意味ではなく音として使う」方法を徹底したのが万葉集である。七五九年以降の成立。万葉仮名と呼ばれるこの表記では、たとえば「なつかし」を漢字の音だけを借りて書く。漢字を、意味を捨てて音符として使い倒したわけである。

万葉集には天皇から農民、防人として徴発された兵士まで、幅広い層の歌が入っている。柿本人麻呂の荘重な長歌があり、山上憶良は貧しさそのものを歌った。日本文学は、最初期に既に、身分の低い者の声を書き留める形で始まっている。

中古 — 仮名の発明と、女性の手による散文

九世紀、万葉仮名の漢字を崩して簡略化した平仮名が生まれる。これは日本文学史における最大の事件と言ってよい。ようやく、日本語を日本語のまま書ける文字ができた。

だが、ここで奇妙なねじれが起きる。公の場で使う正式な文字は漢字・漢文であり、それは男性のものとされた。仮名は私的で、女性のものとされた。格下の文字だったのである。

この序列が、逆説的に文学を生んだ。紀貫之土佐日記(九三五年頃)を書くとき、冒頭で「男もするという日記というものを、女もしてみようと思って書く」という趣旨のことを述べ、女性のふりをして仮名で書いた。 男が仮名で散文を書くには、そういう仕掛けが必要だった。

そして清少納言枕草子紫式部源氏物語が現れる。どちらも仮名で書かれ、どちらも女性の手による。源氏物語は十一世紀初頭の成立で、四百字詰め原稿用紙にしておよそ二千四百枚、登場人物は五百人近い。 主人公が死んだ後も話が続き、次の世代の物語になる。

この作品が世界文学史でどういう位置にあるかは、比較すると分かる。ヨーロッパで心理小説の始まりとされる『クレーヴの奥方』は十七世紀のフランスである。紫式部はその六百年以上前に、人の心の動きだけで長篇を書いていた。

中世 — 和漢混淆文と、無常

武士が権力を握ると、文学の言葉も変わる。貴族の仮名文だけでは、戦や死を書くのに向かなかった。ここで生まれたのが和漢混淆文である。漢語の硬さと和文の流れを混ぜた文体で、平家物語がその代表である。

平家物語は琵琶法師が語り歩いた。つまり文字で読まれる前に、耳で聞かれた。 冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」が今も暗誦されるのは、それが目で読む文ではなく、声に出すための文だからである。

この時代を貫くのは無常という主題である。鴨長明方丈記(一二一二年)は、都を襲った火災・竜巻・飢饉・地震を具体的に記録したうえで、すべては流れて留まらないと述べ、著者は方丈の小屋に隠棲する。吉田兼好徒然草(一三三〇年頃)は、同じ無常を扱いながら、はるかに軽く、断片的で、時に意地が悪い。

歌の世界では藤原定家新古今和歌集を編み、技巧を極限まで洗練させた。そして世阿弥が能を大成し、風姿花伝という演技論を書き残した。世界の演劇史でも早い時期の理論書である。

近世 — 読者が町人になる

江戸時代に入ると、文学の担い手と読者が変わる。貴族でも武士でもなく、町人が本を買うようになった。 出版が商売として成立し、これが文学の中身を決めた。

井原西鶴好色一代男(一六八二年)は浮世草子と呼ばれる。金と色と、それに振り回される人間を、突き放した速度で書く。主題が恋愛ではなく経済であることが、この時代の新しさである。

松尾芭蕉は俳諧を芸術に変えた。滑稽を主とする言葉遊びだったものを、十七音で世界を切り取る形式にした。おくのほそ道(一七〇二年)は紀行文だが、事実の記録ではない。 実際の旅程とは違う構成になっており、旅を素材にして作られた作品である。

近松門左衛門は人形浄瑠璃と歌舞伎の脚本を書いた。曾根崎心中(一七〇三年)は実際に起きた心中事件を、事件の一か月後に舞台化したものである。同時代の事件を即座に作品にする興行の速さは、現代のメディアに近い。

学問の側では本居宣長源氏物語を読み直し、この物語は道徳を説く書ではなく「もののあはれ」を書いたものだと論じた。儒教・仏教の枠で読まれてきた作品を、文学として読み直したのである。

近代 — 二度目の輸入

一八六八年、明治維新。ここで日本文学は千年前と同じ問題に、もう一度直面する。 今度入ってきたのは西洋の小説だった。

問題は文字ではなく文体だった。当時の書き言葉は口語とかけ離れていて、近代小説が必要とする「普通の人が普通に喋る」場面を書けなかった。 ここから言文一致運動が始まる。

坪内逍遥が『小説神髄』(一八八五年)で、小説は勧善懲悪の道具ではなく人間の心理を写すものだと論じ、二葉亭四迷浮雲(一八八七年)でそれを実作した。日本語の書き言葉を一から作り直す作業であり、四迷はこの後、うまく書けないという理由で長く筆を折っている。

森鴎外夏目漱石がこの世代の頂点にいる。二人とも国費で留学し(鴎外はドイツ、漱石はイギリス)、西洋を内側から見た上で日本語で書いた。 漱石はロンドンで神経を病み、帰国後に「自分は西洋人の尺度で自分を測ろうとして苦しんだ」という趣旨のことを語っている。この葛藤がこころ(一九一四年)に至る。

その後の展開は速い。島崎藤村破戒(一九〇六年)と田山花袋蒲団(一九〇七年)が自然主義を代表する。ただしフランスの自然主義が科学を模範に社会を書こうとしたのに対し、日本の自然主義は作者自身の身辺を告白する方向へ向かった。 同じ名前で呼ばれているが、中身は逆に近い。ここから私小説という、日本にしかない形式が生まれる。

大正から昭和へ、芥川龍之介谷崎潤一郎川端康成萩原朔太郎。一方でプロレタリア文学が興り、小林多喜二蟹工船(一九二九年)を書いた四年後、特別高等警察に検挙され、その日のうちに死んでいる。 文学が命に関わる時代が、この国にもあった。

現代 — 焼跡から

一九四五年の敗戦は、価値の全面的な崩壊だった。太宰治人間失格(一九四八年)はその年の空気の中にあり、彼はその年に自殺している。坂口安吾は「堕落論」で、日本人は堕ちるところまで堕ちて、そこから自分を発見するしかないと書いた。

三島由紀夫金閣寺(一九五六年)で、美に取り憑かれた青年が寺を焼くまでを書いた。そして一九七〇年、自衛隊駐屯地でクーデターを呼びかけ、失敗して自決する。作家の死そのものが政治的な事件になった、戦後で唯一の例である。

安部公房砂の女(一九六二年)で、日本的な情緒を切り離した寓話を書き、国際的に読まれた。大江健三郎は障害を持つ息子の誕生を個人的な体験(一九六四年)に書き、以後それを主題であり続けさせた。ノーベル文学賞は川端康成が一九六八年、大江健三郎が一九九四年に受けている。二人の受賞講演の題は対になっている(「美しい日本の私」と「あいまいな日本の私」)。日本をどう名乗るかという問題が、そこでも続いている。

村上春樹以降、日本文学は世界で最も翻訳される文学の一つになった。多和田葉子はドイツ語と日本語の両方で書いている。外から来た言葉で書くという千三百年前の問題は、今度は日本語の側から外へ出ていく形で、まだ続いている。

この先へ

千三百年を貫いているのは、借りてきた道具で自分の言葉を書くという一つの作業である。漢字を借りて仮名を作り、漢文と和文を混ぜ、西洋の文体を輸入して言文一致を作った。そのたびに日本語は作り直され、そのたびに新しい文学が出た。

どこか一つに降りるなら近代が面白い。言葉そのものを作り直しながら書く、という異常な作業がリアルタイムで進行している時代で、漱石も鴎外も、その最中にいた。

同じ年に世界で何が書かれていたかは横断年表へ。源氏物語が書かれた頃、ヨーロッパはまだ武勲詩を歌っていた。