日本文学史 — 古事記から現代までの流れ

日本語には、もともと固有の文字がなかった。五世紀前後に中国から漢字が伝わり、以後しばらく、書く道具はそれしかない。ところが漢字は中国語を書くための文字であり、語順も文法も違う日本語をそのまま写すことができない。ここから、外から来た文字と文体を作り変えて自分の言葉を書く、という作業が始まる。

日本文学史の骨格は、この作業が何度か繰り返された過程として見ると分かりやすい。まず漢字を音符として借りた。次に、その漢字を崩して仮名という自前の文字を作った。仮名ができると、仮名で書く和文と、漢字だけで中国語風に書く漢文の二つが並び立ち、書き手は場面によって使い分けるようになる。中世には両者を混ぜた文体が生まれて定着した。そして明治に西洋の小説が入ってくると、それを書ける文体を一から作り直す作業が、改めて始まる。

以下、六つの時代に分けて追う。上代・中古・中世・近世・近代・現代という区切りと呼び名は、日本文学史で慣用的に使われているものである。全体の見取り図は次のようになる。

時代年代日本史の区分書き言葉に起きたこと代表作
上代〜794年飛鳥・奈良漢字を音として借りる(万葉仮名)古事記 万葉集
中古794〜1185年平安平仮名の成立。和文と漢文が並び立つ源氏物語 枕草子
中世1185〜1600年鎌倉・室町和漢混淆文の成立。語りによる流通平家物語 徒然草
近世1600〜1868年江戸出版が商売になり、読者が町人へ広がる好色一代男 おくのほそ道
近代1868〜1945年明治・大正・昭和前期言文一致。西洋の小説の受容こころ 蒲団
現代1945年〜昭和後期・平成・令和日本語で書かれたものが外へ出ていく金閣寺 砂の女

上代(〜794年/飛鳥・奈良時代)— 漢字を音として使う

上代は、文字による記録が残り始めてから、都が平安京に移る七九四年までを指す。現存する書物では、七一二年成立の古事記が最も古い。ただし、そこに書かれているのは漢文のようで漢文でない文章である。全体は漢字を並べた中国語風の文で書かれているのに、神の名前と歌の部分だけは、漢字の意味を捨てて音だけを借り、日本語の音をそのまま写している。名前と歌は、漢文に訳してしまうと成り立たないからである。

漢字の音だけを借りる書き方を全面的に用いたのが万葉集で、七五九年以降に今の形になったとみられる。この表記法を万葉仮名と呼ぶ。たとえば「やま」を「也麻」と書く。漢字を意味から切り離し、音符として使い倒したわけである。

万葉集には、天皇や宮廷歌人の作から、東国から徴発されて九州の防備にあたった兵士(防人)の歌まで、幅広い層の歌が並ぶ。柿本人麻呂は儀式の場で読み上げる長い形式の歌()の名手で、山上憶良は「貧窮問答歌」で、税に追われる農民の暮らしを歌った。宮廷の外にいる人々の声が同じ一冊に収められている点は、この歌集の大きな特徴である。

上代に成立したものとして名の挙がるのは、次の五点である。歴史書が二つあり、片方(古事記)は日本語の音を残す書き方、もう片方(日本書紀)は中国の正式な歴史書にならった純粋な漢文で書かれている。同じ出来事を扱いながら書き方が違う点に、当時の状況が表れている。

作品成立作者・編者種類
古事記712年稗田阿礼の記憶を太安万侶が筆録歴史書・神話
『日本書紀』720年舎人親王ら歴史書(漢文の正史)
『風土記』713年以降諸国が編纂地誌
『懐風藻』751年編者未詳漢詩集
万葉集759年以降大伴家持が最終段階に関与歌集(全20巻・約4500首)

中古(794〜1185年/平安時代)— 仮名の発明と、女性の手による散文

中古は、都が平安京にあった七九四年から一一八五年頃までを指す。九世紀に、万葉仮名として使われていた漢字を崩し、簡略にした平仮名が生まれた。日本語を、その語順のまま、音のとおりに書ける文字がここで初めてできたことになる。

ただし平仮名は、すぐに正式な文字になったわけではない。公の文書や学問の場で使うのは漢字と漢文で、それは男性のものとされた。仮名は私的な場のもの、女性のものと位置づけられ、格が低かった。

この序列が、結果として散文を生んでいる。紀貫之土佐日記(九三五年頃)の冒頭に、男が書くという日記を女の自分も書いてみる、という趣旨のことわりを置き、女性を装って仮名で書いた。男が仮名で散文を書くには、そういう仕掛けが要ったのである。

そのうえに清少納言枕草子紫式部源氏物語が現れる。どちらも仮名で書かれ、どちらも書き手は宮廷に仕えた女性である。源氏物語は十一世紀初めの成立で、四百字詰め原稿用紙に直しておよそ二千四百枚、登場人物は五百人近い。主人公が死んだ後も話は終わらず、次の世代の物語に移っていく。

この作品が世界の中でどういう位置にあるかは、比べると分かりやすい。事件よりも人物の心の動きで話を進める小説を心理小説と呼び、その始まりとされるのは十七世紀フランスクレーヴの奥方(一六七八年)である。紫式部はその六百年以上前に、人の心の動きだけで長篇を組み立てていた。

この時代に、日本の古典を分類するときの枠がほぼ出そろう。天皇の命で編む、作り話を語る物語、和歌とその成立事情を並べる、個人の体験を仮名で記す日記、思ったことを書き留める随筆の五つである。作品ごとの対応は次のとおり。

作品成立作者種類
古今和歌集905年紀貫之最初の勅撰和歌集
『竹取物語』9世紀末〜10世紀初未詳物語(現存最古の作り物語)
伊勢物語10世紀未詳歌物語
土佐日記935年頃紀貫之日記(最初の仮名の日記)
『蜻蛉日記』974年以降藤原道綱母日記
枕草子1000年頃清少納言随筆
源氏物語1008年頃紫式部物語(全54帖)
『更級日記』1060年頃菅原孝標女日記
今昔物語集1120年頃未詳説話集(約1000話)

中世(1185〜1600年/鎌倉・室町時代)— 和漢混淆文と、無常

中世は、武士が政権を握った一一八五年頃から一六〇〇年頃までを指す。担い手が貴族から武士へ移ると、文学の言葉も変わった。やわらかな仮名文は、合戦や死をあつかうのに向かない。そこで、漢語の硬さと和文の流れを混ぜた和漢混淆文が生まれる。平氏の栄華と滅亡を語る平家物語がその代表である。

平家物語は、書物として読まれるより先に、が琵琶を弾きながら語り歩く形で広まった。冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」が今も暗誦されるのは、これが目で読む文ではなく、声に出したときに調子の合う文だからである。

この時代を貫く主題が無常、すなわち、あらゆるものは移り変わって同じ状態にとどまらない、という仏教由来の見方である。鴨長明方丈記(一二一二年)は、都を襲った火災・竜巻・飢饉・地震を具体的に記録したうえで、人も住まいも留まることがないと述べ、著者自身は方丈(一辺約三メートル)の小屋に退いて暮らす。吉田兼好徒然草(一三三〇年頃)は同じ無常を扱いながら、はるかに軽く、断片的で、人の愚かさを見る目が意地悪い。

歌の世界では藤原定家新古今和歌集の撰者の一人となり、言葉の技巧を極限まで洗練させた。舞台では世阿弥が、面をつけた主役が舞と謡で物語を演じるを大成し、風姿花伝に演技と修業の理論を書き残している。演劇の理論書としては、世界的にも早い時期のものにあたる。

中世に新しく現れたのが、実際の合戦を題材にすると、寺や民間に伝わる短い話を集めたである。どちらも、書物として読むより語って聞かせることを前提にしている。また、枕草子方丈記徒然草の三つは「三大随筆」と並べて呼ばれる。成立は三百年以上へだたっており、書き手も宮廷の女房・出家した歌人・出家した官人と異なる。

作品成立作者種類
新古今和歌集1205年藤原定家勅撰和歌集
方丈記1212年鴨長明随筆
平家物語13世紀前半未詳軍記物語
『宇治拾遺物語』13世紀前半未詳説話集
徒然草1330年頃吉田兼好随筆
『太平記』14世紀後半未詳軍記物語
風姿花伝1400年頃世阿弥能楽論

近世(1600〜1868年/江戸時代)— 読者が町人になる

近世は、徳川の政権が置かれた一六〇〇年頃から一八六八年までを指す。この時代に、本を買って読む層が貴族や武士から町人へ広がった。木版による出版が商売として成り立ち、売れるものが書かれるという条件が生まれる。これが文学の中身を変えた。

井原西鶴好色一代男(一六八二年)は、町人の金銭と色恋を題材にする小説()の出発点になった。金と色、それに振り回される人間を、短い文で速く、突き放して書く。恋そのものより金の勘定が話を動かす点が、それまでの物語と違っていた。

松尾芭蕉は俳諧を作り変えた。俳諧はもともと、五七五と七七を交互に付け連ねていく座の遊びで、笑いを身上とする。芭蕉は最初の五七五(発句)を独立した作品として扱い、十七音で情景と心情を切り取る形式に鍛え直した。おくのほそ道(一七〇二年刊)は東北・北陸をめぐる紀行だが、事実の記録ではない。同行した弟子の日記と照らすと日程も出来事も食い違っており、旅を素材にして構成した作品である。

近松門左衛門は、人形が演じ太夫が語ると、歌舞伎の脚本を書いた。曾根崎心中(一七〇三年)は、実際に起きた心中事件をおよそ一か月後に舞台化したものである。同時代の事件をただちに作品にして興行にかけるという、現代の報道に近い速さがあった。

学問の側では、本居宣長源氏物語を読み直している。それまでこの物語は、儒教や仏教の教えに引きつけて、善悪を説く書として解釈されてきた。宣長は、そこに書かれているのは教訓ではなくだと論じた。作品を道徳の道具として読む枠を外した点で、後の文学研究の出発点になっている。

近世の小説は、判型や絵の量、読者層によって細かく呼び分けられる。伝奇的な筋を長く語る、庶民の失敗談を会話で見せる、町人の生活を扱う浮世草子が主なところである。詩歌では俳諧、演劇では人形浄瑠璃と歌舞伎、学問ではが並行して進む。

作品成立作者種類
好色一代男1682年井原西鶴浮世草子
おくのほそ道1702年刊松尾芭蕉俳諧紀行
曾根崎心中1703年近松門左衛門人形浄瑠璃
雨月物語1776年上田秋成読本
『古事記伝』1798年完成本居宣長国学の注釈書
『東海道中膝栗毛』1802〜1814年十返舎一九滑稽本
南総里見八犬伝1814〜1842年滝沢馬琴(曲亭馬琴)読本

俳諧は松尾芭蕉のあと、与謝蕪村が絵画的な句を、小林一茶が生活に即した句を作り、この三人を近世俳諧の代表として並べるのが通例である。

近代(1868〜1945年/明治・大正・昭和前期)— 二度目の輸入

近代は、明治維新の一八六八年から敗戦の一九四五年までを指す。開国とともに西洋の小説が入り、日本文学は千年前と似た問題にもう一度向き合うことになった。今度足りなかったのは、文字ではなく文体である。

当時の書き言葉は文語といい、話し言葉とかけ離れていた。「〜なりけり」の調子で書かれる文では、普通の人が普通に喋る場面を写せない。そこで、話し言葉に近づけた文体で書こうとする言文一致の試みが始まる。

坪内逍遥は『小説神髄』(一八八五年)で、小説は善を勧め悪を懲らすための道具ではなく、人間の心理を写すものだと論じた。二葉亭四迷はそれを浮雲(一八八七年)で実作する。日本語の書き言葉そのものを作り直しながら書く作業であり、二葉亭はこの後、思うように書けないとして長く筆を折っている。

森鴎外夏目漱石がこの世代の頂点にある。ともに国費の留学生として西洋に学び(鴎外はドイツ、漱石はイギリス)、西洋を内側から見たうえで日本語で書いた。漱石はロンドン滞在中に神経を病み、帰国後の講演で、西洋人の尺度で自分を測ろうとして苦しんだという趣旨を語っている。この葛藤はこころ(一九一四年)まで続く。

その後の展開は速い。島崎藤村破戒(一九〇六年)と田山花袋蒲団(一九〇七年)がを代表する。ただしフランスの自然主義が科学にならって社会を観察しようとしたのに対し、日本の自然主義は作者自身の身辺を隠さず書く方向へ向かった。名前は同じでも中身はほとんど逆である。ここから、作者の生活をそのまま題材にする私小説という、日本に固有の形式が生まれた。

大正から昭和にかけては芥川龍之介谷崎潤一郎川端康成萩原朔太郎が書いた。一方で、労働者の側から社会を書こうとするプロレタリア文学が興る。小林多喜二蟹工船(一九二九年)を発表した四年後、思想犯を取り締まるに検挙され、その日のうちに死亡した。拷問によるものとみられている。

作品発表作者位置づけ
『小説神髄』1885年坪内逍遥評論。近代小説の出発点
浮雲1887〜1889年二葉亭四迷最初の言文一致の小説
舞姫1890年森鴎外留学体験に基づく短篇
たけくらべ1895〜1896年樋口一葉遊郭の子どもたちを描く
若菜集1897年島崎藤村詩集。ロマン主義
みだれ髪1901年与謝野晶子歌集。女性の官能と情熱を歌う
吾輩は猫である1905〜1906年夏目漱石猫の視点による風刺
破戒1906年島崎藤村自然主義。被差別部落の出自を主題に
蒲団1907年田山花袋自然主義。私小説の起点
こころ1914年夏目漱石明治の終わりと個人の孤独
羅生門1915年芥川龍之介古典を素材にした理知的な短篇
蟹工船1929年小林多喜二プロレタリア文学
雪国1935〜1948年川端康成新感覚派を経た後の代表作

近代の作家は、同人誌や雑誌を単位とする集団で動いた。前の流派への反発として次の流派が出てくるため、集団の並びがそのまま近代文学の展開になっている。呼び名の多くはヨーロッパから借りたものだが、時期は対応しない。日本のロマン主義は1890年代で、ヨーロッパのより一世紀ほど遅く、自然主義とほぼ地続きに起きている。

流派時期主な作家主張・特徴
硯友社1885年〜尾崎紅葉江戸の写実の系譜を引き、雅俗折衷の文体で書く
ロマン主義1890年代島崎藤村 与謝野晶子個人の感情と恋愛を、抑えずに歌う
自然主義1900年代後半島崎藤村 田山花袋理想を捨て、作者自身の身辺を隠さず書く
余裕派(高踏派)1900年代後半夏目漱石 森鴎外自然主義と距離を置き、知性と構成で書く
耽美派1910年前後永井荷風 谷崎潤一郎道徳より美と官能を上に置く
白樺派1910年〜武者小路実篤 志賀直哉人道主義と、自我の肯定
新思潮派1910年代後半芥川龍之介題材を理知的に構成する。新現実主義とも
プロレタリア文学1920年代小林多喜二労働者の側から社会の矛盾を書く
新感覚派1924年〜横光利一 川端康成比喩と感覚的な文体で、書き方そのものを新しくする

現代(1945年〜/昭和後期以降)— 敗戦のあとで

現代は、一九四五年の敗戦から今日までを指す。戦争に負けたことで、それまで正しいとされてきた価値がまとめて崩れた。太宰治人間失格(一九四八年)はその空気のなかで書かれ、太宰は同じ年に自殺している。坂口安吾は評論「堕落論」(一九四六年)で、日本人は道徳に頼らず堕ちるところまで堕ち、そこから自分を見つけ直すしかないと書いた。

三島由紀夫金閣寺(一九五六年)で、美に取り憑かれた青年が寺に火を放つまでを書いた。そして一九七〇年、自衛隊の駐屯地に立てこもって決起を呼びかけ、応じられずに割腹自殺する。作家の死そのものが政治的な事件になった例である。

安部公房砂の女(一九六二年)で、日本的な情緒に頼らない寓話を書き、早くから各国語に訳された。大江健三郎は障害をもつ息子の誕生を個人的な体験(一九六四年)に書き、以後もそれを主題にし続けた。ノーベル文学賞は川端康成が一九六八年に、大江健三郎が一九九四年に受けている。受賞講演の題は「美しい日本の私」と「あいまいな日本の私」で、大江は川端の題を踏まえたうえで、あえて逆の言葉を選んだ。日本をどう名乗るかという問いが、ここでも続いている。

村上春樹以降、日本の小説は世界で最も多く翻訳される文学の一つになった。日本語だけでなく外国語でも書く作家も現れ、外から来た言葉で自分を書くという上代以来の問題は、今度は日本語の側から外へ出ていく形で続いている。

戦後の作家も、出てきた順に呼び名がついている。既成の価値に背を向けた無頼派、戦争体験そのものを書いた戦後派、その次に現れた第三の新人という並びである。

作品発表作者位置づけ
人間失格1948年太宰治無頼派
俘虜記1948〜1951年大岡昇平戦後派。捕虜の体験を書く
金閣寺1956年三島由紀夫実際の放火事件を題材に
沈黙1966年遠藤周作第三の新人。日本と信仰を問う
砂の女1962年安部公房日本的な情緒に頼らない寓話
個人的な体験1964年大江健三郎障害をもつ子の誕生を主題に
雪国1948年完成川端康成1968年のノーベル文学賞の対象
ノルウェイの森1987年村上春樹各国語に訳され、読者層を変えた