源氏物語
- 作者
- 紫式部
- 成立
- 1008頃
- 国
- 日本
- 時代
- 中古
概要
五十四帖からなる長い物語である。現代語訳でも文庫で十冊前後になる。四百人以上の人物が登場し、時間は七十年あまりにわたる。一つの家の三世代が扱われる。
前半の主人公は光源氏。天皇の子として生まれ、抜群に美しく、才能に恵まれている。だが母は身分が低く、後ろ盾がない。天皇は源氏を臣下の籍に落とす。皇族の血を持ちながら、皇位に就けない立場が、この人物の出発点にあたる。
物語の大半は恋である。源氏は数多くの女性と関係を持つ。だが、これは色好みの手柄話ではない。それぞれの女性が、それぞれの事情と苦しみを持つ人物として書かれている。 身分の低さゆえに死んでいく者、正妻でありながら愛されない者、嫉妬を制御できず生き霊になる者、山里で見出されて育てられる者。
そして最も重い一件は、源氏が父の妻と関係を持ち、その子が次の天皇になることである。源氏は自分の罪を誰にも言えないまま、その子に臣下として仕える。
後半、源氏は死ぬ。その死は書かれない。 巻と巻のあいだで、いつのまにか過去の人になっている。残りの十帖あまりは孫の世代の話で、宇治を舞台にした暗い恋の物語になる。
読んで最初に戸惑うのは、事件がほとんど起こらないことである。合戦も冒険もない。人が会い、和歌を交わし、季節が移り、誰かが出家し、誰かが死ぬ。それを心理と情趣だけで千ページ以上読ませる。 この造りが、この物語を特別なものにしている。
作者の紫式部は、藤原道長の娘で天皇の后である彰子に仕えた女房だった。宮廷の内部を実際に見ていた人物が、宮廷を舞台にした物語を書いている。書かれた時期は1008年前後とされるが、全巻を一人で書いたのか、どの順で書かれたのかは決着していない。
文学史における評価と影響
日本文学の中心に置かれ続けてきた作品である。千年のあいだ、読まれなかった時代がない。
古典としての地位が固まるのは早い。藤原定家らが本文を校訂し、中世には注釈書が次々に作られた。歌人にとっては、この物語を知らなければ和歌が詠めないという前提の書物になっていた。
読み方を決定的に変えたのが、江戸時代の本居宣長である。それまでこの物語は、儒教や仏教の教えを説くものとして読まれてきた。宣長はそれを否定し、この物語は道徳を説く書ではなく「もののあはれ」を書いたものだと論じた。人が何かに触れて心を動かされること、それ自体に価値がある。文学を道徳から独立させるこの主張は、日本の文学観そのものを変えた。
近代に入ると、世界最古の長篇小説という位置づけが加わる。1925年からアーサー・ウェイリーによる英訳が出て、ヨーロッパで大きな反響を呼んだ。ウルフをはじめとする同時代の作家が、これを驚きをもって迎えている。心理を細かく追う手法が、20世紀の小説と近いものとして受け取られた。
現代語訳の系譜も、この作品の受容の一部にあたる。与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴らが訳しており、訳者ごとに文体が違う。 原文が主語を書かないため、誰が何を言っているかの判断が訳者に委ねられる。そのため、訳を読み比べること自体が一つの読み方になっている。
あらすじ
第一部——光源氏の栄華。
天皇に深く愛された身分の低い更衣が、男子を産んで死ぬ。桐壺帝はこの子を溺愛するが、後ろ盾がないため臣下の籍に降ろし、源の姓を与える。これが光源氏である。
源氏は亡き母に生き写しだという藤壺——父帝の新しい妻——に思いを寄せる。十二歳で左大臣の娘葵の上と結婚するが、心は動かない。
以後、源氏は次々に恋をする。年上の六条御息所、身分の低い夕顔、山里で見出した少女紫の上。夕顔は逢瀬の最中に物の怪に憑かれて死ぬ。紫の上は藤壺の姪で、源氏は少女を引き取って自分の理想の女性に育てる。
そして源氏は藤壺と関係を持ち、藤壺は男子を産む。表向きは桐壺帝の子として育てられ、後に冷泉帝として即位する。誰も真相を知らない。
正妻の葵の上は懐妊するが、六条御息所の生き霊に苦しめられて出産直後に死ぬ。嫉妬が本人の意志を離れて他人を殺すというこの場面は、物語で最も有名な箇所の一つにあたる。
政争に敗れた源氏は須磨・明石へ退く。そこで明石の君と出会い、娘をもうける。やがて都に呼び戻され、以後は昇りつめていく。冷泉帝が出生の秘密を知り、源氏を准太上天皇——天皇に准じる位——とする。六条院という広大な邸を建て、縁のある女性たちを住まわせる。栄華の頂点である。
第二部——その崩壊。
源氏は兄の娘女三の宮を正妻に迎える。だがこの女性はまだ幼く、源氏を失望させる。長年連れ添った紫の上は、この結婚に深く傷つく。
そして柏木という若い貴族が女三の宮と関係を持ち、子が生まれる。源氏はかつて自分がしたことを、今度はされる側で経験する。源氏は真相を知り、柏木を追い詰める。柏木は病んで死ぬ。生まれた子薫は源氏の子として育てられる。
紫の上が死ぬ。源氏は生きる張りを失う。そして物語は、源氏の死を書かないまま次の巻へ移る。「雲隠」という巻名だけがあって本文がない。
第三部——宇治十帖。
舞台は宇治に移る。主人公は薫——実は柏木の子——と、その友であり恋敵でもある匂宮である。
薫は自分の出生に疑いを抱いており、何事にも身が入らない。宇治に住む八の宮の娘たち、大君と中の君に心を寄せるが、大君は薫を拒んだまま病んで死ぬ。
やがて薫は、姉妹の異母妹浮舟を見出す。だが匂宮も浮舟に迫る。二人の男のあいだで追い詰められた浮舟は、宇治川に身を投げようとして失踪する。
浮舟は僧に助けられ、出家していた。薫はそれを知り、使いを送る。浮舟は会うことを拒む。 物語はそこで終わる。結末は書かれない。