土佐日記
- 作者
- 紀貫之
- 成立
- 935頃
- 国
- 日本
- 時代
- 中古
概要
男が女のふりをして書いた日記である。冒頭に、男もするという日記というものを女もしてみようと思ってする、という趣旨の一文が置かれる。これが宣言になっている。
作者の紀貫之は当時最も高名な歌人で、古今和歌集を撰した人物である。その男が、なぜこんな仕掛けを使ったのか。当時、男が公に書く文章は漢文だった。日記も漢文で、事実を記録するものである。仮名で日々の心の動きを書くには、女の書き手を装う必要があった。
内容は、土佐守の任を終えて京へ帰る五十五日の船旅にあたる。全体で四十ページほど。日付を追って書かれるが、書いてあるのは公務ではない。
風が悪くて出航できない日。海賊が出るという噂に怯える日。船酔い。退屈。同行の者たちの下品な冗談。見送りの人がくれた餞別への皮肉。そして、途中の港でつまらない歌を詠む者への辛辣な批評。
その日常の記録のあいだに、一つだけ重いことが挟まれている。貫之は任地で幼い娘を亡くしていた。娘は京へ帰れない。この事実が旅のあいだ何度も戻ってくる。 港の景色を見て思い出し、他人の子を見て思い出す。
そして最後、京の家に着いた場面で日記は終わる。留守を頼んだ隣人が管理しているはずの家は荒れ果てていた。庭の池のそばに小さな松が生えている。それを見て、この家で生まれた子が帰ってこなかったことを思う。
文学史における評価と影響
日本語で書かれた最初の日記文学とされる。
それまで日記は、漢文で公的な事実を記録するものだった。この作品は仮名で個人の感情を書いた。 記録ではなく読み物としての日記が、ここから始まる。
この形式が平安の女性たちに引き継がれる。『蜻蛉日記』『和泉式部日記』紫式部日記『更級日記』。日本の日記文学の大半が女性の手によるものになるのは、この作品が道を開いたためである。
同時に、女性を装ったという事実は、当時の書き言葉の状況を示している。男は漢文、女は仮名という区分が実際に働いていた。 貫之は歌人としては仮名で書いていたが、散文で心情を書くには装いが要った。この不自由さと、それを回避した工夫の両方が、この作品から見える。
歌論としての性格も指摘される。作中で下手な歌が繰り返しからかわれる。船頭の歌、老女の歌、無理に作った歌。古今和歌集を撰した人物が、実作の場で何を良しとしないかを示している。
娘の死の扱い方も繰り返し論じられてきた。貫之は嘆きを長く書かない。数行で触れ、また日常の記述に戻る。そしてしばらくしてまた戻ってくる。悲しみを描写するのではなく、消えないという事実だけを置く。 この抑制が近代以降に高く評価された。
内容
出発。承平四年(934年)十二月、土佐守の任を終えた男が京へ向かう。国司の館を出て、送別の宴が何日も続く。人々が餞別を持って集まるが、その好意の見せ方に対して、書き手はしばしば冷ややかである。
船旅が始まる。海は荒れやすく、思うように進まない。風待ちで何日も同じ港に留まる。その退屈が繰り返し記される。
海賊への恐れ。国司は任期中に恨みを買っている可能性があり、海賊に狙われる噂が立つ。夜のうちに船を出して逃げる場面がある。恐怖のあまり神仏に幣を捧げる。
歌が次々に詠まれる。船中の者、見送りの者、土地の者。書き手はそれを容赦なく批評する。 ある歌について、詠んだ本人は得意げだが誰も褒めなかった、と記される場面もある。
死んだ娘。京から一緒に来た子が、この地で死んだ。帰る船にその子はいない。京へ帰る喜びの中で、この一点だけが動かない。 ある港で、都で生まれた子が土佐で死んだことを思い、歌が詠まれる。
旅の細部。潮の具合、月の出、雲の動き、鳥の声。船頭の乱暴な物言い。子どもが船べりで遊ぶ様子。歌人の観察が、風景よりも人の振る舞いに向いている。
帰着。二月、ようやく京に着く。夜、人目を避けて家に入る。留守を頼んでおいた隣人には、月ごとに礼を払っていた。それなのに家は荒れ、垣は崩れ、池には水草が浮いている。
そして庭に、小さな松が生えているのを見る。この家で生まれた子が、帰ってこなかった。 その思いが記され、歌が詠まれる。書き終えたら破り捨てよう、という一文が最後に置かれる。