松尾芭蕉

頭巾をかぶり杖を手にして立つ、松尾芭蕉を描いた掛軸。上部に賛が書かれている。
与謝蕪村筆と伝わる
原綴
Matsuo Bashō
生没
1644–1694
出身
伊賀国上野(現・三重県伊賀市)
本名
松尾宗房
日本
時代
近世

生涯

1644年、伊賀国(現在の三重県)に、身分の低い武士の家に生まれた。若くして武家に仕え、そこで俳諧に親しんだ。主君の死をきっかけに仕官を離れ、俳諧師として身を立てる道を選ぶ。

江戸に出て俳諧の宗匠(師匠)になり、門人を集めた。だが名声が高まった頃、深川の草庵に隠棲する。この草庵の脇に芭蕉(バショウ)の木が植えられていたことが、号「芭蕉」の由来である。

40代からは、生涯にわたって旅を続けた。野ざらし紀行の旅に始まり、各地を歩いては句を詠み、それを紀行文にまとめた。1689年には、弟子の曾良を伴って東北・北陸を巡る大きな旅に出る。この旅の記録がおくのほそ道になった。1694年、旅の途中の大坂で病に倒れ、51歳で死去。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が事実上の辞世の句とされる。

作風

芭蕉は、格下の遊びだった俳諧を芸術に変えた。俳諧はもともと連歌の余興で、滑稽と言葉遊びを旨とし、和歌のような格式を持たなかった。芭蕉はその発句(連歌の第一句)を独立した表現にまで高め、十七音で世界を切り取る形式にした。「古池や蛙飛びこむ水の音」のように、ありふれた情景を、余分を削ぎ落として一句に結晶させる。

旅を素材に、構成された作品を作った。おくのほそ道は、事実の記録ではない。同行した曾良が別に日記を残しており、突き合わせると日付・経路・出来事が食い違う。芭蕉は作品としての効果のために事実を動かしている。旅行記ではなく、旅を素材に構成された文学作品である。この点は誤解されやすい。

俳諧の理念も残した。「不易流行」(永遠に変わらぬものと、時とともに変わり続けるものその両方を捉える)、枯れた寂しさの美である「さび」、日常を軽やかに詠む「かるみ」などである。ただしこれらは弟子の記録を通じて伝わったもので、芭蕉自身の体系的な理論書は残っていない。

作品

おくのほそ道(1702年刊)

代表作である。江戸から東北・北陸をめぐり大垣に至る旅の紀行文で、句と文章が交互に置かれ、「夏草や兵どもが夢の跡」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」など著名な句を含む。紀行文学の最高峰とされる。

野ざらし紀行(1685年頃)

最初の紀行、笈の小文は中期の紀行で、旅と風雅についての考えが述べられる。

文学史における立ち位置と影響

芭蕉は、俳諧を芸術に引き上げた中心人物である。中世の漂泊の歌人西行を強く意識していた。旅をし、世を捨て、風雅に生きるという生き方を自らに引き受けることで、俳諧に精神的な重みを与えた。過去の隠者の系譜に自分を接続する行為である。

後継が俳諧の幅を広げた。その後、与謝蕪村が絵画的な句を、小林一茶が生活と小さな生き物への眼差しを持ち込んだ。近代に入ると正岡子規が発句を「俳句」として再定義し、現在に至る。

芭蕉の俳句は、世界で最も短い定型詩として海外にも広がった。「HAIKU」は各国語で作られるようになり、その出発点にこの人物がいる。日本文学が国境を越えて影響を与えた数少ない例の一つである。

作品

登場する文学史