柿本人麻呂

原綴
Kakinomoto no Hitomaro
生没
660頃–720頃
出身
大和国(現・奈良県)・推定
日本
時代
上代

生涯

飛鳥時代の後半に活動した歌人だが、確実な伝記は残っていない。660年ごろの生まれ、720年ごろの没とされるのは推定である。下級の官人だったと考えられているが、正史に記録がない。石見国(現在の島根県)で死んだとする歌が万葉集にあり、そこから晩年が推測されている。

つまり人物像は、万葉集の歌そのものから逆算して組み立てられている。歌の配列や題詞(歌の前に置かれた説明書き)をどう読むかで、像が変わる。そのため研究の歴史が長く、斎藤茂吉の『柿本人麿』のような大部の研究書が近代にも書かれた。

天皇や皇族に従って各地を巡り、その場で歌を作る立場にあったことは、作品から確かめられる。宮廷歌人と呼ばれるゆえんである。

作風

人麻呂が扱ったのは長歌という形式である。五音と七音を繰り返して長く続け、最後を五七七で結ぶ。短歌と違い、事柄を展開できる。その長さを構成として使いこなした点が、この人の達成である。対句を積み重ね、枕詞(特定の語を導く決まった修飾句)を配置し、感情を段階的に高めていく。長歌はこの人のところで完成し、万葉集の後は作られなくなった。

歌には公と私の二つの面がある。公の歌は、皇族の死を悼む挽歌や、行幸に従っての讃歌である。天皇と国家を讃える場の歌で、規模が大きい。「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」は、軽皇子の狩に従った際の歌とされる。東に朝日、西に沈む月を置き、天地の広がりのなかに人を配する構図である。壮大なものを壮大なまま歌える言語を、日本語で作ったと言ってよい。

私の歌では、別れと死を扱ったものが最も高く評価されている。妻との別れを歌った「石見相聞歌」、亡き妻を悼む「泣血哀慟歌」。繰り返し同じ場所を見に行き、いないことを確かめるという構造の歌がある。「ささの葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば」では、笹の葉がざわめく音の大きさと、妻を思う自分の内側の一点が対比される。

作品

万葉集に、長歌19首・短歌75首ほどが確実な作として収められている。人麻呂の作とする伝承のある歌を含めると、さらに多い。

代表歌として、「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」「ささの葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば」が挙げられる。百人一首に採られた「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」も人麻呂作とされるが、これは後世の伝承であり、確実ではない。

文学史における立ち位置と影響

紀貫之古今和歌集の仮名序で、人麻呂を山部赤人と並べて「歌の聖(ひじり)」と呼んだ。この評価が以後の規範になる。中世には神格化が進み、人麻呂の肖像を掲げて歌会を行う「人丸影供(ひとまるえいぐ)」という儀礼が成立した。歌の神として祀られたことになる。

近代に入ると、別の形で立て直された。正岡子規古今和歌集の技巧を否定し、万葉集の直截さを掲げたとき、人麻呂は近代短歌の側の規範として改めて据えられた。斎藤茂吉は生涯にわたって人麻呂を研究し、その足跡を実地に辿っている。

千三百年にわたって、その時代ごとの理想の歌人として読み直されてきた、というのがこの人の位置である。歌そのものの評価だけでなく、後世が何を理想としたかを映す鏡にもなっている。

登場する文学史