近松門左衛門

烏帽子と装束をつけて座る近松門左衛門を描いた掛軸。上部に賛が書かれている。
原綴
Chikamatsu Monzaemon
生没
1653–1725
出身
越前国(現・福井県)
本名
杉森信盛
日本
時代
近世

生涯

1653年、越前(現在の福井県)の武士の家に生まれた。本名は杉森信盛。父が浪人したため一家で京へ移り、公家に仕えた時期があるとされる。この時期に古典の教養を身につけたと考えられている。

30歳前後から浄瑠璃の脚本を書き始めた。人形浄瑠璃は、人形が演じ、太夫が語り、三味線が伴奏するという分業によって成り立つ演劇である。近松は語り手の名人・竹本義太夫と組み、大坂の竹本座を拠点にした。歌舞伎の脚本も書き、京の名優・坂田藤十郎のために多くの作品を提供している。

1703年、曾根崎心中が大当たりし、以後、心中物が流行した。晩年は大坂に移り、竹本座の座付作者として書き続ける。生涯の作品は百数十篇に及ぶ。1725年、72歳で死去した。

作風

近松の作品の核にあるのは、義理と人情の相剋である。守るべき義理があり、抗えない情がある。両立しないから人が死ぬ。この構図が、世話物(同時代の市井を扱う作品)の骨格になっている。

同時代の事件を素材にする速さも際立つ。曾根崎心中(1703年)は、実際に起きた心中事件を、事件の約一月後に舞台化したものである。醤油屋の手代と遊女が曾根崎の森で心中したという事件を、そのまま劇にして興行にかけた。現代のメディアに近い速度である。上演は大当たりし、以後、実際の心中が増えたため、幕府が心中を扱った作品を規制するに至った。

詞章は語られることを前提に書かれている。七五調を基本とし、掛詞や縁語を織り込んで、太夫が語ったときに響くように組み立てられる。曾根崎心中の道行の場面「この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば」は、心中に向かう二人の足取りと、鐘の音と、消えていく命が、音の連なりのなかで重なる。

時代物(歴史や伝説を扱う作品)も多く書いた。国性爺合戦は明の遺臣と日本人の母をもつ英雄が中国で戦う話で、荒唐無稽な筋立てと派手な演出が受け、17か月の続演記録を作っている。

作品

曾根崎心中(1703年)

心中物の出発点である。短く筋も明快で、入口に向く。

国性爺合戦(1715年)

時代物の代表作である。

心中天網島(1720年)

世話物の完成形とされる。紙屋の主人と遊女、そして夫を思う妻の三者の関係が絡み、義理が人を追い詰めていく。

女殺油地獄(1721年)

放蕩者の若者が金のために人妻を殺す話で、近代以降に評価が高まった。

戯曲なので、語りのリズムを声に出して確かめると理解しやすい。文楽や歌舞伎の上演映像と併せると、詞章がどう演じられるかが分かる。

文学史における立ち位置と影響

近松は近世演劇の頂点とされる。義理と人情の対立という型は、以後の日本の演劇・小説・映画に受け継がれ、今日まで生きている。組織や家への義務と、個人の感情が衝突するという筋立ては、日本の物語の基本形の一つになった。

同じ17世紀のフランス古典主義の悲劇が、義務と情念の対立を描いたのと構図が似ている。ただしラシーヌの悲劇の主人公が王侯貴族であるのに対し、近松の世話物の主人公は町人である。醤油屋の手代や紙屋の主人が悲劇の主役になる。この違いは、市民社会の成熟度と結びつけて語られる。

「虚実皮膜(きょじつひにく)」の説も伝えられている。芸は虚と実の皮膜のあいだにある、という趣旨で、ありのままでも作り事でもない、その境目に芸の本質があるとする芸術論である。ただしこれは近松自身の著述ではなく、他者が伝えた言葉である。

近代に入ると、坪内逍遥が近松を「日本のシェイクスピア」と呼んで再評価した。この呼び方は今日では単純すぎるとされるが、近代の文学者が江戸の演劇を古典として位置づけ直した動きを示している。

作品

登場する文学史