二葉亭四迷

原綴
Futabatei Shimei
生没
1864–1909
出身
江戸・市ヶ谷(現・東京都新宿区)
本名
長谷川辰之助
日本
時代
近代

生涯

1864年、江戸に武士の子として生まれた。本名は長谷川辰之助。軍人を志して受験に失敗したのち、東京外国語学校でロシア語を学んだ。このロシア語が、後の仕事の土台になる。

評論家坪内逍遥に接近し、その導きで小説を書き始めた。1887年から浮雲(浮雲)を発表するが、これを未完のまま中断してしまう。以後、二十年近く小説を書かなかった。官庁や新聞社に勤め、ロシア語の翻訳や実務で過ごし、「自分は文学者ではない」という趣旨の発言を繰り返している。

40代で『其面影』『平凡』を書いて創作に戻ったが、まもなく朝日新聞の特派員としてロシアへ渡った。その帰国の途上、ベンガル湾上で結核により死んだ。45歳だった。

作風

二葉亭は、話し言葉で小説を書く文体をゼロから作った。いま我々が読む小説の地の文——「〜だ」「〜である」で終わる、話し言葉に近い日本語——は、当時存在しなかった。明治二十年頃の文章は、まだ漢文訓読調か雅文体で、「〜なり」「〜けり」で書かれていた。その文章で近代人の日常や心の動きを書こうとすると、どうしてもずれる。二葉亭が浮雲で試みたのが、この解決、すなわち「言文一致」(書き言葉と話し言葉を一致させること)である。

方法は借用だった。落語家・三遊亭円朝の速記本を参考にした、と本人が回想している。演芸の口演を文字に起こした速記が、近代小説の文体の元になったことになる。

仕事のもう半分は翻訳が占める。ロシア語ができた二葉亭は、ツルゲーネフを訳した。『あひゞき』(『猟人日記』の一篇)の訳文は、自然描写の日本語を変えたとして繰り返し引かれる。島崎藤村国木田独歩が、この訳文から受けた影響を証言している。外国語を日本語に移す作業のなかで、新しい日本語が作られた。

作品

浮雲(1887〜89年)

代表作である。免職になった青年官吏が、何も達成しないまま煩悶し続ける内面を、口語の地の文で書いた。未完のまま中断されたが、日本の近代小説の起点とされる。

翻訳では、ツルゲーネフの『あひゞき』『めぐりあひ』が名高い。実作より、この翻訳のほうが後世への影響が大きかったとする評価さえある。

文学史における立ち位置と影響

浮雲は日本近代文学の出発点とされる。理由は文体だけではない。主人公が挫折し(免職になった役人が煩悶し続ける)、事件ではなく内面が中身になり、結末がつかないまま中断される。近代文学の主題(自意識と挫折)と、その形式(口語の地の文)が、最初の作品で同時に現れた。

理論と実作の関係でも要になる。坪内逍遥の評論『小説神髄』(1885年)が「小説は人情を写すべし」と理論を述べたのに対し、二葉亭はそれを実作でやってみせた。二人は師弟に近い関係で、『浮雲』の初版は坪内の名で出ている。

ただし、本人は文学を信じ切れなかった。号の「二葉亭四迷」は「くたばってしまえ」から取ったと本人が説明している(文学を志すことを父に叱られた言葉、と伝えられる)。近代文学を始めた人が、その文学を信じ切れなかったという矛盾は、以後の日本文学が繰り返し扱う主題と重なる。著作権保護期間は満了している。

作品

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