坂口安吾
- 原綴
- Sakaguchi Ango
- 生没
- 1906–1955
- 出身
- 新潟県新潟市
- 本名
- 坂口炳五
- 国
- 日本
- 時代
- 近代
生涯
1906年、新潟の資産家の家に、13人きょうだいの十二番目として生まれた。本名は炳五(へいご)。父は衆議院議員で漢詩人でもあったが、家は傾いていた。中学時代から素行が悪く、東京の学校へ移されている。
一時は仏教に深く傾倒し、東洋大学でインド哲学を学んだ。この時期、サンスクリット語やパーリ語を含む語学に没頭し、心身を壊すほど勉強したという。この体験が、後の思考の下地になっている。
1931年、短篇『風博士』が作家の牧野信一に激賞されて文壇に出た。だがその後は長く低迷し、生活も定まらない。戦時中は徴用を逃れながら書き続け、1942年に日本文化私観を発表している。
転機は敗戦だった。1946年、評論「堕落論」と小説『白痴』を相次いで発表し、一躍時代の中心に出る。以後、旺盛に書いた。だが覚醒剤と睡眠薬への依存が進み、精神に変調をきたして入院もしている。1955年、脳出血により48歳で死去した。
作風
安吾の中心にあるのは、建前を剥がして人間の実際の姿を見ようとする態度である。「堕落論」(1946年)はその代表で、日本人は堕ちるところまで堕ちて、そこから自分自身を発見するしかない、と論じた。天皇制も武士道も、人間の弱さを覆い隠す装置にすぎないという主張である。焼跡の現実に対して、この論はきわめて強い説得力を持った。戦前の価値も、戦後に与えられた民主主義の建前も、どちらも信じないという立場が明確に示されている。
同じ態度は戦時中から一貫していた。日本文化私観(1942年)では、桂離宮や法隆寺のような「日本的な美」を持ち上げる風潮を退け、実際に人が使う工場や刑務所のほうに美を見た。必要から生まれた形こそ美しい、という主張である。日本の伝統が称揚された時期に書かれている点が重要である。
小説では幻想的な作品も書いた。桜の森の満開の下は、満開の桜の下では人が孤独と恐怖に襲われるという着想から始まり、山賊と美しい女の物語が進む。論理の明快な評論とは別の面が出ている。
扱う領域は広い。推理小説、時代小説、歴史随筆、囲碁や将棋の観戦記まで書いており、一つのジャンルに収まらない書き手である。
作品
「堕落論(Daraku ron)」(1946年)が代表作である。短く、主張も明快で、戦後の日本を理解する資料としても読める。
白痴(1946年)
戦時下の空襲のなかで、言葉を持たない女と暮らす男を描いた小説である。
桜の森の満開の下(1947年)
幻想的な短篇で、安吾の別の面が読める。
日本文化私観(1942年)
戦時下に書かれた文化論である。
不連続殺人事件(1947〜48年)
本格推理小説で、探偵作家クラブ賞を受けた。
文学史における立ち位置と影響
安吾は太宰治、織田作之助らとともに「無頼派(新戯作派)」に位置づけられる。既成の文学の枠組みを拒み、退廃的な生活を送った作家群を指す呼称である。ただしこれは後から与えられた名で、当人たちが集団を形成していたわけではない。実際、安吾の論理は太宰の自己劇化とはかなり性質が違う。太宰が自分の弱さを差し出したのに対し、安吾は人間の弱さを前提として認めたうえで、そこから考えを組み立てた。
「堕落論」は文学作品というより思想的な提言として読まれてきた。戦後の価値転換を最も早く言語化した文章の一つであり、現代日本文学の出発点として繰り返し参照される。
1946年、銀座のバーで太宰治らと撮られた写真が残っており、戦後文学の出発点を象徴する一枚として知られている。著作権保護期間は満了しており、青空文庫で全文を読める。