現代の日本文学 — 太宰・三島・大江から村上春樹まで

現代は、1945年の敗戦から今日までを指す。昭和後期・平成・令和にあたる。

1945年8月の敗戦は、日本の書き手にとって価値の全面的な崩壊だった。前日まで正しいとされていたものが、翌日には否定される。国家も、道徳も、それを支えていた言葉も信用を失った。この空白から何を書き出すかが、戦後文学の出発点になる。

現代に書かれた主な作品

作品発表作者位置づけ
白痴1946年坂口安吾無頼派。空襲下の生活を書く
人間失格1948年太宰治無頼派。発表の年に自殺
仮面の告白1949年三島由紀夫自伝の形をとる小説
野火1951年大岡昇平戦後派。極限下の兵士
金閣寺1956年三島由紀夫実際の放火事件を素材に
砂の女1962年安部公房風土性を消した寓話
個人的な体験1964年大江健三郎障害をもつ子の誕生
沈黙1966年遠藤周作第三の新人。信仰と棄教
雪国1948年完成川端康成1968年ノーベル賞の対象
風の歌を聴け1979年村上春樹乾いた文体のデビュー作
ノルウェイの森1987年村上春樹各国語に訳され読者層を変えた

無頼派は、既成の価値も新しい建前も信じなかった

戦後すぐに現れたのが無頼派と呼ばれる作家たちである。戦前の価値も、占領下で新しく与えられた民主主義の建前も、どちらも信じない立場をとった。

坂口安吾は評論「堕落論」(1946年)で、日本人は堕ちるところまで堕ちて、そこから自分自身を見つけ直すしかないと論じた。天皇制も武士道も、人間の弱さを覆い隠す装置にすぎないという主張である。焼跡の現実を前にして、これは強い説得力を持った。

太宰治人間失格(1948年)は、人間らしく振る舞えない男が、道化を演じながら破滅していく話である。太宰はこの作品を発表した年に、玉川上水で入水自殺した。

太宰は近代私小説の系譜の上にいるが、自分を語る「私」そのものを演技として提示している点が違う。告白の形式を使いながら、その告白が信用できるのかを読者に疑わせる。

戦場を体験した世代が、その経験を書いた

大岡昇平野火(1951年)は、フィリピン戦線で部隊からはぐれた兵士が、飢餓のなかを彷徨する話である。人肉食という主題に踏み込み、極限で人間性がどこまで保たれるかを問う。大岡自身がフィリピンで捕虜になった経験を持つ。

このほか野間宏(のまひろし)、埴谷雄高(はにやゆたか)らが戦後派と呼ばれ、戦争責任と、個人が主体的に生きられるかという問題を扱った。

1950年代半ばには、その次の世代として第三の新人と呼ばれる一群が現れる。安岡章太郎、吉行淳之介、そして遠藤周作。戦後派が大きな主題を正面から論じたのに対し、身近な家族や日常を素材にする点が違う。

三島由紀夫は、戦後の口語文のなかで硬質な日本語を選んだ

三島由紀夫は戦後文学のなかで特異な位置にある。

金閣寺(1956年)は、実際に起きた金閣寺放火事件を素材に、美に取り憑かれた青年がその美を焼くまでを書いた。美しすぎるものは自分の生を妨げる、という論理が緻密に組み立てられている。

文章は古典的な語彙と構文を保ちながら、極度に人工的である。戦後の口語文が主流になった時代に、意図的に硬質な日本語を選んだ。

そして1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、憲法改正のための決起を呼びかけたが応じられず、割腹自殺した。作家の死そのものが政治的な事件になった例である。この事件をどう評価するかは今日まで定まっていない。文学としての達成と政治的な行動をどう切り分けるかという問題は、フランスのセリーヌをめぐる議論と構造が似ている。

安部公房以降、翻訳で失われない文体が生まれた

一方で、日本的な情緒に頼らない作家が現れる。

安部公房砂の女(1962年)は、砂丘の穴の底にある家に閉じ込められた男の話である。地名も時代も曖昧で、日本的な風土性が意図的に消されている。 そのため翻訳で失われるものが少なく、早くから各国語で読まれた。理由の説明されない状況に人物が投げ込まれるという点で、カフカとの近さがよく指摘される。

遠藤周作沈黙(1966年)は、江戸初期の禁教下で棄教を迫られる宣教師を描く。神はなぜ沈黙するのかという主題は、カトリックの信者であった遠藤の生涯の問いだった。

大江健三郎個人的な体験(1964年)で、障害をもつ子の誕生に直面した父親を書いた。作者自身の経験であり、以後この主題を書き続ける。文体は翻訳調とも評される独特のもので、日本語としての自然さより、思考の構造をそのまま写すことを優先している。

二つのノーベル賞講演は、題が対になっている

日本人のノーベル文学賞受賞は二人。その受賞講演の題が対になっていることが、この時代の問題をよく表している。

受賞作家講演題
1968年川端康成美しい日本の私
1994年大江健三郎あいまいな日本の私

川端康成は道元・明恵の歌を引き、日本の伝統的な美意識を語った。大江健三郎はその題を意識的に踏まえたうえで、近代化のなかで西洋と伝統に引き裂かれた日本の「あいまいさ」を語り、川端の立場から距離を取っている。

日本をどう名乗るか。上代以来、外から来たものと自分の言葉の関係に悩み続けてきたこの文学の問いが、国際的な舞台でそのまま現れた。

村上春樹以降、日本の小説は外へ出ていった

松本清張は社会派推理小説を確立し、犯罪の背後にある社会の仕組みを描いた。文学と大衆娯楽の境界を動かした作家である。司馬遼太郎の歴史小説は、読者の歴史観そのものに影響を与えた。

1970年代末に村上春樹が登場する。デビュー作風の歌を聴け(1979年)から、それまでの日本文学の湿った文体とは違う、乾いた文章を書いた。翻訳を通して英語の構文を意識的に取り入れたと本人が語っている。ノルウェイの森(1987年)が社会現象的に売れ、以後、日本文学で最も多くの言語に翻訳される作家になった。

村上以降も、日本の小説は次々に外国語へ訳されていった。なかには、日本語だけでなく外国語でも作品を書く作家も現れている。外から来た言葉で自分を書くという上代以来の問題が、いまは日本語の側から外へ出ていく形で続いている。

現代が残したのは、外へ出ていく日本語

中身
価値の崩壊から敗戦の空白が出発点。無頼派がそれを引き受けた
世代の並び無頼派 → 戦後派 → 第三の新人、と反発の連鎖で交替した
翻訳される文体安部公房以降、風土性に頼らない書き方が国際的に読まれた
日本をどう名乗るか二つのノーベル賞講演が対になっている
外へ出る日本語日本語だけでなく外国語でも書く作家が現れた

日本文学の他の時代