おくのほそ道
- 作者
- 松尾芭蕉
- 成立
- 1702
- 国
- 日本
- 時代
- 近世
概要
旅の記録の形をとった作品である。江戸を出て東北を北上し、日本海側を南下して大垣に至るまで、約六百里、五か月の旅を書く。
構成は決まっている。土地の情景を散文で書き、そこに発句を一句置く。これを繰り返す。散文の部分は短く、切り詰められていて、説明が少ない。この散文と句を組み合わせた文章を俳文と呼び、この作品がその代表とされる。
重要なのは、これが日記ではないことである。同行した弟子の曽良も旅の記録を残しており、両者を比べると日付も経路も出来事も食い違う。訪ねていない場所を訪ねたように書き、実際とは違う順に並べ、句も後から差し替えている。芭蕉は事実を並べたのではなく、作品として組み立てた。
書かれた句には、教科書に載るものが多く含まれる。平泉での「夏草や兵どもが夢の跡」、立石寺での「閑さや岩にしみ入蝉の声」、最上川の「五月雨をあつめて早し最上川」、象潟の「象潟や雨に西施がねぶの花」。
旅の目的は歌枕を訪ねることだった。歌枕とは、和歌に繰り返し詠まれてきた土地のことである。芭蕉は西行の五百回忌にあたる年に、西行が歩いた道をたどっている。行った先で、期待した景色がすでに失われている場面が何度も出てくる。
芭蕉がこの旅に出たのは1689年、四十六歳のとき。当時としては老年に近く、旅は命がけだった。冒頭に、この旅で死ぬかもしれないという覚悟が書かれている。芭蕉は帰った後も推敲を続け、刊行されたのは死後の1702年である。
文学史における評価と影響
日本の紀行文の最高峰とされ、俳諧を文学として確立させた作品と位置づけられる。
芭蕉が変えたのは、俳諧の位置そのものだった。それまで俳諧は、和歌や連歌より格の低い、言葉遊びに近いものと見なされていた。芭蕉はそこに、旅と自然と人生の主題を持ち込んだ。 この作品は、その到達点にあたる。
「不易流行」という考え方が、しばしばこの旅と結びつけて語られる。変わらないものと、その時々で変わっていくもの。その両方を同時に捉えようとする姿勢が、旅の各所で試されている。
冒頭の一節も広く知られる。月日は永遠の旅人であり、行き交う年もまた旅人である。時間そのものを旅として捉えるこの書き出しは、中国の詩文を踏まえながら、この作品全体の枠を決めている。
事実と創作の関係は、この作品をめぐる最大の論点にあたる。曽良の日記との食い違いが明らかになったのは近代に入ってからで、当初は衝撃をもって受け取られた。だが現在は、それこそがこの作品を文学にしていると評価される。 紀行文でありながら、記録ではなく作品として設計されている。
近代以降、正岡子規が俳句の革新を進める際、芭蕉の評価は一度下げられた。子規は蕪村を高く置き、芭蕉は過大評価だと論じた。その後、評価は揺り戻し、いまは近世文学の中心に置かれている。
内容
旅立ち。冒頭で、月日は百代の過客であり、旅に生き旅に死んだ先人たちのことが語られる。芭蕉は住んでいた庵を人に譲り、1689年の春、弟子の曽良を伴って江戸を発つ。見送りの人々が上野・谷中の桜のもとに集まる。
日光を経て、那須へ。殺生石を見る。
白河の関。ここから「みちのく」に入る。古来、多くの歌に詠まれてきた場所である。
松島。芭蕉はその景色を絶賛するが、句を残していない。 あまりの美しさに句が出なかった、と読まれてきた。
平泉。奥州藤原氏三代の栄華の跡である。いまは田野になっており、金鶏山だけが残る。城跡に登り、夏草や兵どもが夢の跡と詠む。中尊寺の光堂が、囲いによって守られ、かろうじて残っていることが記される。
立石寺(山寺)。予定を変えて立ち寄る。岩に登り、静けさの中で蝉の声を聞く。閑さや岩にしみ入蝉の声。
最上川。舟で下る。五月雨をあつめて早し最上川。 初案では「涼し」だったものが「早し」に変わっている。
出羽三山。羽黒山、月山、湯殿山を巡る。湯殿山については、そこで見たことを口外してはならない決まりがあり、芭蕉は書かずに、涙が袖を濡らしたとだけ記す。
象潟。松島と対にして語られる。松島が笑うようであるのに対し、象潟は恨むようだ、と書かれる。象潟や雨に西施がねぶの花。(この潟は後の地震で隆起し、現在は陸地になっている。)
日本海沿いを南下し、市振では遊女と同じ宿に泊まる場面が置かれる。この挿話は曽良の日記になく、創作とみられている。
金沢・小松・那谷を経て、福井・敦賀へ。旅の疲れと、季節の移りが記される。
大垣。弟子たちが集まり、旅は終わる。だが芭蕉はそこに留まらず、すぐに次の旅へ発つ。 蛤の蓋と身が分かれるように別れて、二見へ向かう、という句で作品は閉じられる。