蟹工船
- 作者
- 小林多喜二
- 成立
- 1929
- 国
- 日本
- 時代
- 近代
概要
1929年、雑誌『戦旗』に発表された中篇小説である。オホーツク海で蟹を獲り、船上で缶詰に加工する「蟹工船」を舞台に、そこで働く者たちの労働と、彼らが団結してストライキに至るまでを描く。特定の主人公を置かず、労働者の集団そのものを主体として書いた点が特徴である。プロレタリア文学の代表作とされ、発表当時は伏字だらけで刊行された。百ページほどで読める。
多喜二は北海道拓殖銀行に勤めながら小説を書いていた。小樽は港湾労働者の町で、労働争議も頻発している。多喜二は労働運動に関わり、その現場を作品の材料にした。
執筆にあたっては実地の取材を行った。蟹工船の乗組員や監督から聞き取り、新聞記事や裁判記録を集めている。作中の出来事には、実際に起きた事件が下敷きになっているものがある。
1929年に『戦旗』へ発表されたが、当時の検閲により多くの箇所が伏字にされた。この作品が問題視され、多喜二は翌1930年に銀行を解雇されている。以後は非合法下の活動を続けながら書き、1933年、特別高等警察に検挙されたその日に死亡した。29歳だった。
文学史における評価と影響
プロレタリア文学の代表作である。1920年代後半に高揚したこの運動のなかで、最も広く読まれた作品にあたる。
方法として際立つのは、特定の主人公を置かないことである。冒頭の「おい、地獄さ行ぐんだで!」という台詞も、誰の言葉かは示されない。名前を持つ個人ではなく、労働者の集団が主語になる。同時期の主流だった私小説が作者個人の内面を追ったのとは、正反対の方法にあたる。
描写は即物的である。飢え、殴打、凍傷、脚気、糞尿。心理の説明をほとんど置かず、状況が身体に何をするかを積み上げる。この書き方が、告発の力を支えている。
結末で労働者が勝利する点も、意図的な選択である。当時の運動が求めた「団結すれば勝てる」という筋道を、作品の形で示している。同時に、これが政治的な要求に従った書き方だという批判の根拠にもなってきた。プロレタリア文学は、政治的な主張が作品の質を規定するという批判を長く受けており、文学としての評価と歴史的資料としての価値をどう切り分けるかは、今も議論が続いている。
2008年前後、この作品が再び読まれてベストセラーになった。非正規雇用の拡大と労働条件の悪化が社会問題になった時期と重なったためである。80年前の作品が現代の状況を語る言葉として読まれた例として、受容史の面から注目されている。
伏字のある初出版を復元した校訂本もあり、当時の検閲がどう働いたかを確認できる。著作権保護期間は満了しており、青空文庫で全文を読める。
あらすじ
「おい、地獄さ行ぐんだで!」という言葉から始まる。
函館から一隻の船が出る。博光丸という蟹工船で、オホーツク海からカムチャツカ沖へ向かう。乗っているのは、農村から出てきた出稼ぎの百姓、都市の失業者、鉱山を追われた労働者、学生、そして年少の雑夫たちである。
船は法律上「工船」であって航船ではない。そのため工場法も航海法も適用されない。この法の空白のなかで、労働は際限なく重くなる。監督の浅川は、収穫量を上げるためなら人が死んでも構わないという態度をとった。船内は不潔で、脚気と壊血病が広がる。仕事の遅い者は殴られ、焼きを入れられ、便所に縛りつけられる。
近くで遭難信号が上がっても、浅川は救助に向かわせない。時間の無駄だという理由である。時化のなかで川崎船が流され、乗っていた者たちはロシア領に漂着した。彼らはそこで、日本語を話す中国人を介して、働く者が団結すれば国を動かせるという話を聞かされる。数日後に船へ戻った彼らは、その話を仲間に伝えた。
死者が出る。病気で動けなくなった雑夫が、手当てを受けられないまま死んだ。船内に怒りが溜まっていく。やがて労働者たちは、代表を立てて要求を突きつけることを決める。作業を止め、九人の代表が浅川のもとへ向かった。
だが浅川は無線で駆逐艦を呼んでいた。国家が労働者を守ってくれると信じていた者たちの前で、水兵たちは代表九人を捕らえて連れ去る。
残された者たちは学ぶ。誰が味方で、誰が敵なのかを取り違えていた。代表を立てたのが誤りで、全員で一斉に立たなければならない。彼らは二度目の行動を起こし、今度はそれが成功する。