日本文学 近代
通史では、この時代を「二度目の輸入」と要約した。ここではその中身を開く。
明治維新で西洋の小説が入ってきたとき、日本の書き手は奇妙な壁にぶつかった。内容ではなく、言語の問題である。
当時の書き言葉は、話し言葉と大きくかけ離れていた。文語で書かれた文章には、普通の人が普通に喋る場面を書く手段がない。近代小説は日常を書く形式なのに、日常を書ける文体がなかった。
つまり日本の近代文学は、作品を書く前に、書くための日本語を作るところから始まった。上代で漢字を音符として使い倒したのと同じ種類の作業を、千年後にもう一度やることになる。
言文一致 — 言語を作り直す
一八八五年、坪内逍遥が『小説神髄』を発表する。主張は、小説は勧善懲悪の道具ではなく、人間の心理をありのままに写すものだというものだった。近世の滝沢馬琴的な作り物語の否定である。
その理論を実作で試したのが二葉亭四迷の浮雲(一八八七〜八九年)である。彼はロシア語を学んでおり、ツルゲーネフの翻訳を通して話し言葉に近い文体を模索した。
だがこれは想像以上に難しかった。文末をどうするか(「である」か「だ」か「です」か)、地の文と会話をどう繋ぐか、敬語をどう処理するか。日本語の書き言葉を一から設計する作業である。
二葉亭四迷は浮雲を未完のまま中断し、うまく書けないという理由で長く筆を折った。 言文一致が実用の水準に達するには、この後さらに二十年近くかかる。
鴎外と漱石 — 西洋を内側から見た二人
森鴎外(一八六二〜一九二二)と夏目漱石(一八六七〜一九一六)は、ともに国費で留学した。鴎外は陸軍軍医としてドイツへ、漱石は文部省派遣でイギリスへ。
二人とも西洋を内側から見たうえで、日本語で書いた。 これが同時代の他の作家との決定的な違いである。
森鴎外
舞姫(一八九〇年)はドイツ留学中の日本人青年と現地の踊り子の悲恋を、雅文体で書いた。文語である。言文一致が模索されていた時期に、あえて格調の高い文語を選んでいる。
彼は軍医として最高位(陸軍軍医総監)まで昇り、同時に膨大な翻訳と創作を行った。晩年は歴史小説・史伝に向かい、『渋江抽斎』では一人の無名の医師の生涯を、資料を積み上げて淡々と記述する。小説というより考証に近い形式で、これも日本近代文学の独特な達成である。
夏目漱石
漱石はロンドンで神経を病んだ。英文学を研究しようとして、そもそも自分は何を基準に文学を判断しているのかが分からなくなったという趣旨のことを、後に講演や序文で述べている。
彼が語った「自己本位」という考え方は、他人(西洋)の尺度で自分を測ることをやめ、自分の側に基準を置くという態度である。近代日本の知識人が直面した問題を、最も明確に言語化した。
作品の展開も速い。吾輩は猫である(一九〇五〜〇六年)の諧謔から、坊っちゃんの勢い、そしてこころ(一九一四年)の暗さへ。
こころで扱われるのは、友を裏切ったという罪の意識と、それを抱えたまま生きられなくなる人間である。作中で「先生」は明治天皇の崩御と乃木希典の殉死に触れて自死する。個人の罪の意識と、時代の終わりが重ねられている。
自然主義 — そして日本での転回
ここが日本文学史で最も注意を要する箇所である。
フランスの自然主義は、エミール・ゾラが科学を模範として、遺伝と環境が人間を決定する過程を社会の規模で描こうとしたものだった。
日本に入った自然主義は、まったく別の方向へ進んだ。
島崎藤村の破戒(一九〇六年)はまだ社会的である。被差別部落出身の教師が出自を隠して生きる苦しみを扱っている。
しかし翌年、田山花袋の蒲団(一九〇七年)が出る。中年の作家が若い女弟子に抱いた欲望を、自分自身のこととして赤裸々に書いた。 主人公が去った弟子の使っていた蒲団に顔を埋める場面で終わる。
これが決定的だった。以後の日本の自然主義は、社会の観察ではなく、作者自身の身辺と内面の告白へ向かう。ここから私小説という日本独自の形式が生まれる。
| フランス自然主義 | 日本自然主義 | |
|---|---|---|
| 模範 | 科学・実験 | なし(告白) |
| 対象 | 社会・階級・遺伝 | 作者自身の身辺 |
| 帰結 | 社会小説 | 私小説 |
同じ名前で呼ばれているが、系譜としては別物として扱うべきである。 なぜこの転回が起きたのかは日本近代文学研究の大きな主題であり、定説は一つに定まっていない。
反自然主義の系譜
告白と暗さへの反発として、複数の流れが出る。
耽美派 — 谷崎潤一郎、永井荷風、泉鏡花。美と官能と幻想を重んじる。ヨーロッパの唯美主義と構図が重なる。
白樺派 — 武者小路実篤、志賀直哉。人道主義と自我の肯定。裕福な家庭の出身者が多く、明るい。志賀直哉は簡潔な文章で「小説の神様」と呼ばれた。
余裕派・高踏派 — 漱石とその周辺。
新思潮派 — 芥川龍之介。今昔物語集など古典を素材に、知的に構成された短篇を書いた(羅生門など)。だが晩年、「ぼんやりした不安」という言葉を残して一九二七年に自殺する。この死は、時代の転換点として語られてきた。
新感覚派 — 横光利一、川端康成。感覚を直接文にする方法意識を持ち、ヨーロッパのモダニズムと同時代的だった。
詩と短歌
[[hagiwara-sakutaro]] — 『月に吠える』(一九一七年)で、口語自由詩を芸術として確立した。それまで詩は文語が主流であり、口語で詩が書けることを実作で示した功績は大きい。
[[ishikawa-takuboku]] — 三行書きの短歌で、生活の苦しさと社会への意識を詠んだ。二十六歳で没。
[[yosano-akiko]] — 『みだれ髪』(一九〇一年)で身体と情熱を歌い、日露戦争に際しては「君死にたまふことなかれ」を発表した。
[[miyazawa-kenji]] — 生前はほぼ無名。農業技師として働きながら、独自の宇宙観に基づく童話と詩を残した(銀河鉄道の夜)。
文学が命に関わる時代
一九二〇年代後半、プロレタリア文学運動が高揚する。小林多喜二の蟹工船(一九二九年)は、蟹工船の過酷な労働と労働者の団結を描いた。
彼は一九三三年に特別高等警察に検挙され、その日のうちに死亡している。 拷問によるものとされる。
以後、思想弾圧が強まり、多くの作家が転向を強いられた。書くことが生命に関わる時代が、この国にもあった。 戦時下では言論統制が徹底され、文学は戦争協力へ動員されていく。
- 思潮としてまとめて見る: プロレタリア文学
この時代をどう読むか
| 中身 | |
|---|---|
| 言語の再構築 | 言文一致。書くための日本語を作るところから始まった |
| 自然主義の転回 | フランス由来の名前で、中身は正反対の私小説になった |
| 西洋との距離 | 漱石の「自己本位」が問題を最も明確に言語化した |
| 弾圧 | 小林多喜二の死。文学が命に関わった |