近代の日本文学 — 言文一致・漱石・鴎外と自然主義

近代は、明治維新の1868年から敗戦の1945年までを指す。明治・大正・昭和前期にあたる。

開国とともに西洋の小説が入ってきたとき、日本の書き手は思わぬところで詰まった。内容ではなく、書くための言葉がなかった。

当時の書き言葉は文語といい、話し言葉とかけ離れている。「〜なりけり」「〜たりし」の調子で書かれる文章では、普通の人が普通に喋る場面を写せない。ところが近代小説は、まさにその日常を書く形式である。日本の近代文学は、作品を書く前に、書くための日本語を用意するところから始まった。上代に漢字を音符として使い倒したのと同じ種類の作業を、千年後にもう一度やることになる。

近代に書かれた主な作品

七十七年と幅があるので、まず年表として押さえておく。

作品発表作者位置づけ
『小説神髄』1885年坪内逍遥評論。近代小説の出発点
浮雲1887〜1889年二葉亭四迷最初の言文一致の小説
舞姫1890年森鴎外留学体験に基づく短篇
たけくらべ1895〜1896年樋口一葉遊郭のそばで育つ子どもたち
若菜集1897年島崎藤村詩集。ロマン主義
歌よみに与ふる書1898年正岡子規短歌の革新を説く
みだれ髪1901年与謝野晶子歌集。女性の官能を歌う
吾輩は猫である1905〜1906年夏目漱石猫の視点による風刺
破戒1906年島崎藤村自然主義。被差別部落の出自
蒲団1907年田山花袋自然主義。私小説の起点
一握の砂1910年石川啄木三行書きの歌集
こころ1914年夏目漱石明治の終わりと個人の孤独
羅生門1915年芥川龍之介古典を素材にした短篇
月に吠える1917年萩原朔太郎口語自由詩の確立
春と修羅1924年宮沢賢治詩集。生前はほぼ無名
伊豆の踊子1926年川端康成新感覚派を経た短篇
蟹工船1929年小林多喜二プロレタリア文学

二葉亭四迷は、書けなくなって筆を折った

1885年、坪内逍遥が『小説神髄』を発表する。主張は、小説は善を勧め悪を懲らすための道具ではなく、人間の心理をありのままに写すものだというものだった。近世滝沢馬琴(曲亭馬琴)的な勧善懲悪の物語を、正面から否定している。

その理論を実作で試したのが二葉亭四迷浮雲(1887〜1889年)である。ロシア語を学んでおり、ツルゲーネフの翻訳を通して話し言葉に近い文体を探した。

だがこれは想像以上に難しかった。文末をどうするか(「である」か「だ」か「です」か)、地の文と会話をどう繋ぐか、敬語をどう処理するか。手本になる文章が一つもない状態で、日本語の書き言葉を一から設計する作業である。二葉亭は浮雲を未完のまま中断し、思うように書けないという理由で長く筆を折った。

話し言葉に近い文体で書こうとするこの試みを言文一致と呼ぶ。実用の水準に達するまで、この後さらに二十年近くかかった。

鴎外と漱石は、西洋を内側から見たうえで日本語で書いた

森鴎外(1862〜1922)と夏目漱石(1867〜1916)は、ともに国費の留学生として西洋に学んだ。鴎外は陸軍軍医としてドイツへ、漱石は文部省の派遣でイギリスへ。西洋を内側から見たうえで日本語で書いた点が、同時代の他の作家との決定的な違いである。

鴎外の舞姫(1890年)は、ドイツ留学中の日本人青年と現地の踊り子の悲恋を、格調の高い文語で書いた。言文一致が模索されていた時期に、あえて文語を選んでいる。軍医として最高位(陸軍軍医総監)まで昇り、同時に膨大な翻訳と創作を行った。晩年は歴史小説と史伝に向かい、渋江抽斎では一人の無名の医師の生涯を、資料を積み上げて淡々と記述している。小説というより考証に近い形式で、これも近代日本文学の独特な達成にあたる。

漱石はロンドンで神経を病んだ。英文学を研究しようとして、そもそも自分は何を基準に文学を判断しているのかが分からなくなったという趣旨を、後の講演や序文で述べている。そこから出てきたのが「自己本位」という考え方で、他人(西洋)の尺度で自分を測ることをやめ、自分の側に基準を置くという態度である。近代日本の知識人が直面した問題を、最も明確に言葉にした。

作品の変化も速い。吾輩は猫である(1905〜1906年)の諧謔から、坊っちゃんの勢い、そしてこころ(1914年)の暗さへ。こころで扱われるのは、友を裏切ったという罪の意識と、それを抱えたまま生きられなくなる人間である。作中で「先生」は、明治天皇の崩御と乃木希典(のぎまれすけ)の殉死に触れて自ら死ぬ。個人の罪の意識と、一つの時代の終わりが重ねられている。

日本の自然主義は、社会ではなく作者自身へ向かった

ここが日本文学史で最も注意を要する箇所である。

フランスの自然主義は、ゾラが科学を模範として、遺伝と環境が人間を決定する過程を社会の規模で描こうとしたものだった。日本に入ったは、まったく別の方向へ進む。

島崎藤村破戒(1906年)はまだ社会的である。被差別部落の出身であることを隠して生きる教師の苦しみを扱っている。しかし翌年、田山花袋蒲団(1907年)が出た。中年の作家が若い女弟子に抱いた欲望を、自分自身のこととして隠さずに書いた作品で、主人公が去った弟子の使っていた蒲団に顔を埋める場面で終わる。

これが決定的だった。以後の日本の自然主義は、社会の観察ではなく、作者自身の身辺と内面の告白へ向かう。ここから私小説という、日本に固有の形式が生まれる。

フランス自然主義日本自然主義
模範科学・実験なし(告白)
対象社会・階級・遺伝作者自身の身辺
帰結社会小説私小説

同じ名前で呼ばれているが、系譜としては別物として扱うほうがよい。なぜこの転回が起きたのかは日本近代文学研究の大きな主題で、定説は一つに定まっていない。

流派は、前の流派への反発として現れた

近代の作家は、同人誌や雑誌を単位とする集団で動いた。前の流派への反発として次が出てくるので、集団の並びがそのまま展開になる。

流派時期主な作家主張・特徴
硯友社1885年〜尾崎紅葉江戸の写実を引き、雅俗折衷の文体で書く
ロマン主義1890年代島崎藤村 与謝野晶子個人の感情と恋愛を抑えずに歌う
自然主義1900年代後半島崎藤村 田山花袋理想を捨て、作者自身の身辺を隠さず書く
余裕派(高踏派)1900年代後半夏目漱石 森鴎外自然主義と距離を置き、知性と構成で書く
耽美派1910年前後永井荷風 谷崎潤一郎 泉鏡花道徳より美と官能を上に置く
白樺派1910年〜武者小路実篤 志賀直哉人道主義と、自我の肯定
新思潮派1910年代後半芥川龍之介題材を理知的に構成する。新現実主義とも
プロレタリア文学1920年代小林多喜二労働者の側から社会の矛盾を書く
新感覚派1924年〜横光利一 川端康成比喩と感覚的な文体で書き方そのものを新しくする

呼び名の多くはヨーロッパから借りているが、時期は対応しない。日本のロマン主義は1890年代で、ヨーロッパのより一世紀ほど遅く、自然主義とほぼ地続きに起きている。

芥川龍之介は、今昔物語集など古典を素材に、緻密に構成された短篇を書いた。だが晩年、「ぼんやりした不安」という言葉を残して1927年に自殺する。この死は、大正から昭和への転換点として語られてきた。

詩と短歌も、文語から口語へ動いた

散文で言文一致が進んだのと同じことが、詩歌でも起きる。

萩原朔太郎月に吠える(1917年)は、口語自由詩を芸術として成立させた。それまで詩は文語が主流で、口語で書くと散文と区別がつかなくなると考えられていた。実作でそれを覆したことの意味は大きい。

短歌では正岡子規が、見たものをそのまま写す「写生」を唱え、歌よみに与ふる書(1898年)で古今和歌集を批判した。与謝野晶子みだれ髪(1901年)で身体と情熱を歌い、日露戦争に際して「君死にたまふことなかれ」を発表する。石川啄木は三行書きの短歌で生活の苦しさと社会への意識を詠み、26歳で没した。

宮沢賢治は生前ほぼ無名である。農業技師として働きながら、独自の宇宙観に基づく童話と詩を残した(銀河鉄道の夜)。

小林多喜二は、検挙されたその日のうちに死んだ

1920年代後半、プロレタリア文学の運動が高まる。労働者の立場から社会の矛盾を書こうとする流れで、小林多喜二蟹工船(1929年)は、蟹を獲って缶詰にする船の過酷な労働と、労働者が団結するまでを描いた。

多喜二は1933年、思想犯を取り締まるに検挙され、その日のうちに死亡している。 拷問によるものとみられている。

以後、思想弾圧が強まり、多くの作家が自分の思想を捨てると表明させられた。これを転向という。戦時下では言論統制が徹底され、文学は戦争協力へ動員されていく。書くことが生命に関わる時代が、この国にもあった。

近代が残したのは、作り直された書き言葉と私小説

中身
言語の再構築言文一致。書くための日本語を作るところから始まった
自然主義の転回フランス由来の名前で、中身は正反対の私小説になった
西洋との距離漱石の「自己本位」が問題を最も明確に言葉にした
集団の交替硯友社から新感覚派まで、反発の連鎖として展開した
弾圧小林多喜二の死。文学が命に関わった

日本文学の他の時代