山上憶良

原綴
Yamanoue no Okura
生没
660頃–733頃
出身
不明(百済からの渡来人の子とする説がある)
日本
時代
上代

生涯

660年ごろに生まれたとされるが、出自ははっきりしない。百済(くだら、朝鮮半島にあった古代国家)からの渡来人の家系とする説がある。

七世紀末から八世紀にかけて、朝廷の官人として仕えた。702年には遣唐使の一員として唐に渡り、中国の学問や思想に直接触れた。この大陸での経験が、儒教や仏教の思想を色濃くたたえた作風の背景にある。

帰国後は東宮(皇太子)の教育係を務めたのち、伯耆守(ほうきのかみ)や筑前守(ちくぜんのかみ)など地方官を歴任した。筑前守の時期には、大宰府(だざいふ、九州を統括した役所)の長官だった歌人、大伴旅人(おおとものたびと)と親交を結んだ。旅人は大伴家持の父である。二人を中心に、九州の任地で歌を詠み交わす一群の歌人が集まり、「筑紫歌壇(つくしかだん)」と呼ばれる。憶良の代表作の多くは、この時期に生まれた。晩年は都に戻り、733年ごろに没したとされる。

作風

憶良の歌は、貧しさ、老い、病、子への愛といった、人が生きるうえで避けられない現実を主題にする。花鳥風月や恋を優美にうたう当時の和歌の主流とは、大きく性格が異なる。

代表作の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」は、貧しい者とさらに貧しい者が、寒さと飢えを語り合う長歌である。税に苦しむ庶民の生活を、具体的な描写でうたった。社会の底辺に目を向けたこうした歌は、日本の古代和歌のなかでほとんど例がない。

子への愛をうたった歌も名高い。「瓜食(うりは)めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲(しの)はゆ」——瓜を食べれば子が思われ、栗を食べればなおさらだ——と始まる長歌に、「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」(どんな財宝も子どもにはかなわない)の一首が添えられている。当時の和歌が恋や自然を主題にしたのに対し、親が子を思う情をうたった歌は珍しい。

儒教や仏教の思想を歌に取り込んだのも特徴である。遣唐使として学んだ漢学の素養は深く、歌の前に漢文の序を置いたり、老いと病の苦しみを漢文で綴った文章を残したりもした。人間の生の苦を見つめる思想的な深さが、憶良の歌の根にある。

作品

「貧窮問答歌」

『万葉集』に収められた長歌である。貧しい者どうしが寒さと飢え、そして税の取り立ての苦しさを問答の形で語り合う。庶民の生活の現実を正面から描いた、古代和歌のなかで際立って社会的な作品にあたる。

「子を思ふ歌」「老身に病を重ね……」など

子への愛をうたった歌や、老いと病の苦しみをうたった歌が、まとまって『万葉集』に残る。人生の苦を見つめる思想的な深さが、これらの歌に共通している。憶良の歌はすべて万葉集を通して今日に伝わる。

文学史における立ち位置と影響

憶良は、日本の古代和歌のなかで、人間の生の現実を主題にした思想的な歌人として文学史に名を残す。自然や恋を優美にうたう歌が主流だった時代に、貧困や老病、子への情といった主題を持ち込んだ点に、その独自性がある。

同じ万葉集の歌人でも、柿本人麻呂が荘重な宮廷讃歌を大成したのに対し、憶良は社会と人生の苦へ目を向けた。万葉の歌の広がりを示す、対照的な存在である。

その社会への眼差しと思想性は、後世にも高く評価された。近代以降、庶民の生活を見つめた歌人として再評価が進み、教科書にも数多く採られている。古代にあって、人間の現実を歌の主題にしえた稀有な歌人とされる。

登場する文学史