本居宣長

原綴
Motoori Norinaga
生没
1730–1801
出身
伊勢国松阪(現・三重県松阪市)
日本
時代
近世

生涯

1730年、伊勢国松阪(現・三重県松阪市)の木綿を商う商家に生まれた。若くして父を失い、家業は傾いた。医術を学ぶため京に上り、儒学や日本の古典に親しんだ。京での勉学が、のちの学問の土台になった。

松阪に戻ってからは、町医者を営みながら古典の研究を続けた。三十代のとき、国学者、賀茂真淵(かものまぶち)と一夜だけ対面し、『古事記』の研究を志すよう勧められた。この「松阪の一夜」と呼ばれる出会いが、宣長の生涯を決めた。真淵は『万葉集』研究で知られた先達である。

以後、宣長は医業のかたわら、松阪の自宅の書斎「鈴屋(すずのや)」で門人に古典を講じつつ、『古事記』の注釈に打ち込んだ。その仕事は三十五年におよんだ。門人は各地に五百人近くを数えた。「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」は、日本人の心を山桜の清らかな美しさにたとえた、宣長自身の心をうたう歌として名高い。1801年、松阪で没した。

作風

宣長の学問は、後世の解釈や思想を交えずに、古典そのものの言葉を精密に読むことを方法とする。とりわけ、儒教や仏教が入る以前の、日本古来の心のあり方を古典のなかに探ろうとした。外来の思想の色眼鏡を外して古代を見る、という姿勢である。

その中心にある考えが「もののあはれ」である。物事に触れて心が自然に動かされる、しみじみとした感動を指す。宣長は源氏物語を、道徳の書としてではなく、この「もののあはれ」を描いた文学として読んだ。善悪の教訓で物語を裁くそれまでの読み方を退けた、画期的な解釈である。

漢意(からごころ、中国渡来の理屈っぽい考え方)を排し、素直に対象に感じ入る心を尊んだ。この情を重んじる態度が、宣長の学問と文学観を貫いている。

作品

『古事記伝(こじきでん)』

日本最古の歴史書古事記の、全編にわたる注釈である。三十五年をかけて完成させた大著で、それまで難解で読めなくなっていた『古事記』の本文を、精密な考証によって読み解いた。近世の学問の最高の達成の一つとされ、以後の古典研究の基礎を築いた。

『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』

源氏物語の注釈書である。物語の本質を「もののあはれ」に見出し、道徳的な教訓を読み取ろうとする従来の解釈を批判した。日本の文学論の古典として重要な位置を占める。

文学史における立ち位置と影響

宣長は、近世国学を大成した人物として文学史に名を残す。国学とは、儒学や仏教を通してではなく、日本古来の古典そのものから、この国の言葉と心を明らかにしようとした学問である。宣長の古事記研究は、その到達点だった。

文学史のうえで決定的なのは、「もののあはれ」という文学観の確立である。物語や和歌を、道徳や政治の道具としてではなく、心の自然な動きを写すものとしてとらえるこの見方は、日本文学を評価する新しい基準となり、近代の文学観にも受け継がれた。

一方で、宣長の説いた日本古来の道への回帰は、後の時代に思想的・政治的な影響も及ぼした。宣長の没後にその学統を継ぐと称した平田篤胤(ひらたあつたね)は、神道の宗教色を強め、その流れは幕末の尊王思想へとつながっていく。学問の厳密さと、古代への理想化とが分かちがたく結びついている点は、今日も議論の対象となっている。

登場する文学史