新古今和歌集

作者
藤原定家
成立
1205
日本
時代
中世

概要

和歌の技巧が最も高いところまで行った歌集である。全二十巻、約1980首。八番目の勅撰集にあたる。

特徴は本歌取りにある。古い歌の言葉を意図的に取り込んで、新しい歌を作る。読者はもとの歌を知っている前提で、二つの歌が重なるところに情趣を見る。知らなければ、その歌の半分は見えない。

もう一つが余情である。言い切らず、余韻を残す。体言で止め、句の切れ目を工夫し、はっきりした結論を置かない。見渡しても花も紅葉もない、という有名な歌は、何もないことを詠むことで、かえって強い印象を作る。

歌の作り方も古今和歌集とは違う。あちらは理屈で組み立てた。こちらは色と音と気配で作る。秋の夕暮れ、暁の別れ、夢と現の境。絵のように、しかも輪郭をぼかして提示する。

この歌集は最後まで完成しなかった。1205年に完成の宴が行われたが、後鳥羽院はその後も歌の入れ替えを続けた。さらに承久の乱に敗れて隠岐に流された後も改訂を続け、隠岐本と呼ばれる別の形を作った。 どれを正本とするかは決まっていない。

編纂は後鳥羽院の命による。撰者は藤原定家ら六人。だが院自身が深く関わり、事実上の総責任者だった。天皇が自ら和歌の細部にまで手を入れた例として、これに並ぶものはない。

文学史における評価と影響

和歌の到達点とされる一方、その後の和歌が行き詰まる地点でもあった。

技法の面では、本歌取りと余情によって、言葉の重ね方が極限まで洗練された。ただしこの方法は、共有された古典の知識を前提にする。知識のない者には届かない。 和歌が閉じた世界の技芸になっていく分岐点が、ここにある。

歌の内容も注目される。この歌集が編まれた時期、貴族はすでに政治的な力を失っていた。滅びゆく側が、失われた美を極限まで磨いた集として読まれることが多い。実際、成立の十六年後に後鳥羽院は承久の乱に敗れて流される。

藤原定家の影響は、この歌集を超えて広がる。定家は源氏物語をはじめとする古典の本文を校訂し、小倉百人一首を撰した。いま読まれている平安の古典の本文は、多くが定家の手を経ている。 後の歌道の家はすべて定家を祖と仰いだ。

美意識の面では、幽玄という語がこの時期の歌を説明するために使われる。奥深く、はっきり見えず、余情がある状態を指す。この観念は後に能楽論——世阿弥風姿花伝——にも受け継がれた。

近代では、正岡子規古今和歌集を否定した際、この歌集も同じ技巧の系譜として退けられた。再評価は20世紀後半に進む。 言葉によって世界を組み立てる意識的な作り方が、近代詩の方法に近いものとして読み直された。

内容

仮名序と真名序の両方が置かれる。古今和歌集の序を意識した構成にあたる。

巻一〜六——四季。古今和歌集と同じく季節順に並ぶが、歌の調子が違う。景色を写すより、その場の気配を作る。

秋の巻に、三夕の歌と呼ばれる三首が置かれる。いずれも「秋の夕暮」で終わる。寂蓮の、さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮。西行の、心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮。そして定家の、見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮。

この三首は、いずれも何も無いことを詠んでいる。色もなく、花も紅葉もなく、心もない。それでも情趣がある、と主張する。

巻十一〜十五——恋。古今和歌集と同じく恋の進行順に並ぶ。定家の、来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ、が知られる。待つ、と松帆の浦を掛け、藻塩を焼く火と自分が焦がれる心を重ねる。 掛詞と縁語を幾重にも重ねた作りにあたる。

主要な歌人。西行の歌が最も多く採られている。出家して各地を旅した歌人で、この歌集の中では作りが素朴な部類に入る。定家、その父藤原俊成、式子内親王、寂蓮、慈円、そして後鳥羽院自身の歌が並ぶ。

式子内親王の、玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする、は恋の歌として広く知られる。命よ、絶えるなら絶えてしまえ。生き長らえれば、隠しきれなくなるかもしれないから。

作者

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