中世の日本文学 — 平家物語・方丈記・徒然草と能
中世は、武士が政権を握った1185年頃から1600年頃までを指す。鎌倉時代と室町時代にあたり、四百年を超える長い区分である。
この時代の初めに、文学の担い手が入れ替わった。それまで文学を作り、読んでいたのは京の貴族だった。そこへ武士が実権を握り、戦乱が続き、飢饉と災害が重なる。書かれる中身が、恋と四季から、合戦と死と没落へ移る。中身が変われば、それを書ける言葉も変えなければならない。 それがこの時代の最初の課題だった。
貴族の仮名文では、合戦と死を書けなかった
中古の宮廷で洗練された仮名文は、やわらかく、音の流れを重んじる文体である。恋の機微を書くには向いているが、鎧の名前や、首を取る動作や、都が焼ける光景を書くには語彙が足りない。
そこで生まれたのが和漢混淆文である。硬く簡潔な漢語と、流れがあって情感を運ぶ和文を混ぜる。平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」が分かりやすい例で、「祇園精舎」「諸行無常」は仏教の漢語、「鐘の声」「響きあり」は和文の調子にあたる。硬い語と柔らかい語が交互に置かれ、意味と音の両方が立つ。
この方式は、以後の日本語の散文の基礎になった。今日の文章が漢語と和語を意識せずに混ぜているのは、ここで確立した書き方の延長にある。
中世の作品は、軍記・随筆・説話・連歌に分かれる
四百年に及ぶ時代なので、ジャンルごとに見るほうが把握しやすい。中世に新しく現れたのは、実際の合戦を題材にすると、寺や民間に伝わる短い話を集めた、そして複数人で作るの三つである。
| 種類 | 作品 | 成立 | 作者 |
|---|---|---|---|
| 勅撰和歌集 | 新古今和歌集 | 1205年 | 藤原定家ら |
| 随筆 | 方丈記 | 1212年 | 鴨長明 |
| 軍記物語 | 『保元物語』『平治物語』 | 13世紀前半 | 未詳 |
| 軍記物語 | 平家物語 | 13世紀前半 | 未詳 |
| 説話集 | 『宇治拾遺物語』 | 13世紀前半 | 未詳 |
| 説話集 | 『十訓抄』 | 1252年 | 未詳 |
| 説話集 | 『古今著聞集』 | 1254年 | 橘成季(たちばなのなりすえ) |
| 説話集 | 『沙石集』 | 1283年 | 無住(むじゅう) |
| 日記・紀行 | 『十六夜日記』 | 1280年頃 | 阿仏尼(あぶつに) |
| 随筆 | 徒然草 | 1330年頃 | 吉田兼好 |
| 歴史物語 | 『増鏡』 | 14世紀 | 未詳 |
| 連歌 | 『菟玖波集』 | 1356年 | 二条良基(にじょうよしもと)ら |
| 能楽論 | 風姿花伝 | 1400年頃 | 世阿弥 |
| 連歌 | 『水無瀬三吟百韻』 | 1488年 | 宗祇(そうぎ)・肖柏・宗長 |
平家物語は、読まれる前に琵琶法師が語り歩いた
平家物語は13世紀前半の成立とされ、平家の栄華と滅亡を描く。
この作品を読むときに最初に知っておくことがある。これは書物として読まれる前に、耳で聞かれた作品である。 が寺社や道端で琵琶を弾きながら語り歩き、その語りで広まった。作者が誰かは分かっておらず、本文も一つに定まらない。語りの系統ごとに別の本が伝わっている。
冒頭が今日まで暗誦されるのは、目で読む文ではなく、声に出したときに調子の合う文だからである。七五調の連なりが、意味を取る前に音として体に入る。同じ理由でフランスの武勲詩も声で語られていた。両者に直接の関係はないが、文字を読めない聴衆に長い物語を伝えるという条件が、似た形式を生んでいる。
内容の芯にあるのは無常である。あらゆるものは移り変わり、同じ状態にとどまらないという仏教由来の見方で、この作品では、勝者が必ず滅びるという形をとる。ただし平家物語はそれを教訓として説かない。具体的な人物の死に方を通して見せる。 若い敦盛を討たざるを得なかった熊谷直実(くまがいなおざね)、壇ノ浦で幼い天皇を抱いて入水する二位尼(にいのあま)。
軍記物語はこの作品の前後にも書かれた。保元の乱を扱う『保元物語』、平治の乱を扱う『平治物語』、南北朝の争いを扱う『太平記』。四つを並べると、合戦の記録がしだいに長大になり、語り物として整えられていく過程が見える。
方丈記と徒然草は、同じ無常を逆の調子で書いた
この時代に目立つのが、世を捨てた者が書くという形である。出家して都を離れ、小屋や庵で暮らしながら書く。地位も家も持たない立場から世の中を眺めることが、一つの書き方として成立した。
方丈記は、災害の記録として無常を書く
鴨長明の方丈記(1212年)は、冒頭で川の流れを引いて無常を語る。だが本文の中心は災害の記録である。安元の大火、治承の辻風、養和の飢饉、元暦の大地震。それぞれについて、何が起きたかを具体的に書く。飢饉の際には都で四万人以上の死者を数えたという記述がある。
抽象的に無常を説くのではなく、実際に世界が壊れる場面を見た人間の報告になっている。そのうえで著者は方丈(一辺約三メートル)の小屋に隠棲する。しかし末尾で自問する。この閑居を楽しむ心も、執着ではないのか。答えを出さずに終わる。
徒然草は、同じ主題を軽く、断片的に扱う
吉田兼好の徒然草(1330年頃)は、同じ無常を扱いながら調子がまるで違う。軽く、断片的で、時に意地が悪い。 二百四十余段のうちには、朝廷の儀式の考証もあれば、説教もあり、失敗した人を面白がる話もある。こうあるべきだと説いた段の近くで、正反対のことを言うこともある。
有名な段では、花は満開だけを、月は曇りのないものだけを見るものだろうか、と問う。欠けたもの、途中のもののほうに趣があるという美意識で、これは後の日本の美学に長く影響した。
方丈記と徒然草、そして中古の枕草子を合わせて三大随筆と呼ぶ。成立は三百年以上へだたっており、書き手も宮廷の女房・出家した歌人・出家した官人と異なる。
新古今和歌集は技巧を極め、連歌は座で作られた
藤原定家らが撰した新古今和歌集(1205年)は、勅撰和歌集の中でも技巧の密度が高い。先行する歌の一句をわざと取り込む本歌取りが代表的な技法で、読み手が元の歌を知っていることを前提に、そこからのずらしで効果を出す。ほかに、名詞で歌を止める体言止め、初句で意味を切る初句切れ。目指されたのはである。
一方、西行は武士の身分を捨てて出家し、各地を旅して歌を詠んだ。技巧よりも、旅と孤独と自然が主題になる。その生き方は後世の理想像となり、近世の松尾芭蕉が明確に意識している。
室町期に大きく育ったのが連歌である。複数人が集まり、五七五と七七を交互に付け連ねていく。前の句だけを受けて付けるので、全体の筋は定まらない。 誰か一人の作品ではなく、その場に集まった人たちの共同の作になる。二条良基が『菟玖波集』(1356年)を編んで地位を高め、宗祇が『水無瀬三吟百韻』(1488年)で頂点を作った。この形式が次の時代に笑いを主とする俳諧へ転じ、そこから松尾芭蕉の発句が独立していく。
世阿弥は、実演者として演技論を書き残した
世阿弥(1363年頃〜1443年頃)は、父の観阿弥(かんあみ)とともにを大成した。
能は幽玄を旨とする。多くは死者の霊が現れて過去を語り、舞い、消えるという形をとる。動きは極端に少なく、面は表情を変えない。見る側が想像で補うことを前提にした様式である。同じ舞台では、庶民の失敗を笑いで見せる狂言が交互に演じられた。
文学史でとりわけ重要なのが風姿花伝(1400年頃)である。実演者自身が書き残した演技の理論書で、当初は一子相伝の秘伝として非公開だった(広く知られるのは明治末になってからである)。
内容は具体的である。年齢に応じた稽古の方法、観客の質による演じ分け、そして「花」——観客を感動させる力——をどう保つか。「秘すれば花なり」は、意外性がなくなれば感動も消えるという趣旨で、演出の心得として述べられている。
世界の演劇史を見ても、実演者がこの水準の理論を書き残した例は早い。ヨーロッパで演劇論が体系化されるのは、フランス古典主義の17世紀である。
中世が残したのは、和漢混淆文と語られる文学
| 中身 | |
|---|---|
| 文体の発明 | 和漢混淆文。今日の日本語の散文の基礎 |
| 声の文学 | 平家物語は聞かれる文学だった |
| 無常 | 抽象論ではなく、災害と戦乱の実体験の上にある |
| 座の文学 | 連歌は複数人で作る。個人の作品という枠に収まらない |
| 理論の登場 | 世阿弥が実演者として演技論を書いた |
室町の末には、短い絵入りの物語である御伽草子(おとぎぞうし)が広く読まれるようになる。書き手は分かっておらず、読者も貴族に限られない。次の近世で本が商品になる下地は、ここにできている。