近世の日本文学 — 西鶴・芭蕉・近松と江戸の出版

近世は、徳川の政権が置かれた1600年頃から1868年までを指す。江戸時代にあたる。

この時代の文学を理解する鍵は、作品の中身ではなくその外側にある。出版が商売として成立したことである。それまで書物は写本だった。人が手で書き写すので、作るのに手間がかかり、数が出ず、読むのは貴族や僧侶や武士に限られる。江戸時代に入ると木版印刷による商業出版が確立し、本屋ができ、貸本屋が町を回り、町人が金を払って本を買うようになった。

買い手が変われば、売れるものが変わる。この時代の文学の性格は、ほぼこの一点から説明できる。

本が商品になり、読者が町人へ広がった

中世まで近世
読者貴族・僧侶・武士町人(商人・職人)
主題無常・信仰・戦金・色・義理人情
流通写本商業出版・貸本屋
書き手身分ある者・隠者職業作家が現れる

下の二つが大きい。書いて食える人間が、この時代に初めて現れた。 それまで書き手は、貴族や僧のように別の身分を持ち、その余技として書いていた。近世には、本が売れることで生活する作者が出てくる。誰に何を売るかが、書く中身を決めるようになる。

小説は、浮世草子・洒落本・読本などに呼び分けられる

近世の小説は、判型・絵の量・読者層・扱う世界によって細かく呼び分けられる。名前が多くて煩わしいが、それぞれが別の読者に向けた別の商品だったと考えると整理がつく。

呼び名時期内容代表作
仮名草子17世紀前半仮名で書かれた教訓・娯楽の読み物『伊曾保物語』
1682年〜町人の金銭と色恋好色一代男
黄表紙1775年〜絵を主とする大人向けの滑稽な読み物『金々先生栄花夢』(恋川春町=こいかわはるまち)
洒落本18世紀後半遊里での会話と作法『仕懸文庫』(山東京伝=さんとうきょうでん)
18世紀後半〜絵より文を主とし、伝奇的な筋を長く語る雨月物語 南総里見八犬伝
19世紀初庶民の失敗と会話の可笑しみ『東海道中膝栗毛』(十返舎一九
人情本19世紀前半町人の恋愛と人情『春色梅児誉美』(為永春水=ためながしゅんすい)

洒落本と人情本には、それぞれ弾圧の歴史がついている。洒落本は寛政の改革(1790年代)で、人情本は天保の改革(1840年代)で取り締まられ、作者が処罰され版木が没収された。 幕府が風俗の乱れを正そうとするたびに、まず出版が対象になる。書くことが商売になったということは、同時に、取り締まる対象になったということでもある。

井原西鶴は、人間を金の動きを通して観察した

井原西鶴はもともと俳諧師だった。一昼夜に何句詠めるかを競う興行で、二万三千五百句を詠んだという記録がある。速度そのものを芸にする発想の持ち主である。

その速度を散文に持ち込んだのが好色一代男(1682年)で、浮世草子という新しいジャンルを開いた。主人公が七歳から六十歳まで女性遍歴を重ね、最後は女だけが住むという島へ船出する。

だが西鶴の本領は恋愛ではない。日本永代蔵世間胸算用では、主題が完全に経済になる。どうやって金を貯めたか、どうやって破産したか、大晦日に来る借金取りをどう追い返すか。人間を、金の動きを通して観察する。文体は短く、切り詰められ、感傷がない。

この突き放した視線は、19世紀のフランスでバルザックがやったことと主題の面で重なる。直接の関係はないが、商業社会が成熟すると文学が金を主題にする、という点は共通している。

松尾芭蕉は、格下の遊びだった俳諧を芸術に変えた

俳諧はもともと中世から出た余興である。連歌が格式を重んじたのに対し、俳諧は滑稽と言葉遊びを身上とし、和歌のような地位はなかった。松尾芭蕉がやったのは、この格下の遊びを芸術に変えるという仕事である。

方法としては、連なりの最初の句である発句(ほっく)を独立させ、十七音で情景と心情を切り取る形式に鍛え直した。同時に、中世西行を強く意識している。旅をし、世を捨て、風雅に生きる。過去の隠者の系譜に自分を接続することで、俳諧に精神的な重みを与えた。

おくのほそ道(1702年刊)は東北・北陸をめぐる紀行だが、事実の記録ではない。 同行した弟子の曾良(そら)が別に日記を残しており、両者を比べると日付も経路も出来事も食い違う。芭蕉は構成のために事実を動かしている。旅を素材にして作られた作品であって、旅行記ではない。

その後、与謝蕪村が絵画的な句を、小林一茶が生活と小さな生き物への眼差しを持ち込んだ。この三人を近世俳諧の代表として並べるのが通例である。

俳人生没句の性格主な作品
松尾芭蕉1644-1694旅と自然。風雅を精神の問題として扱うおくのほそ道 野ざらし紀行
与謝蕪村1716-1784絵画的で色彩が濃い。画家でもある『蕪村七部集』
小林一茶1763-1828生活の細部と小さな生き物。口語に近い『おらが春』

近松門左衛門は、実際の心中事件を一月後に舞台化した

近松門左衛門は、人形が演じ太夫が語ると、歌舞伎の脚本を書いた。

曾根崎心中(1703年)の成立の経緯が、この時代の文学の性格をよく表している。大坂で実際に起きた心中事件を、およそ一月後に舞台にかけた。 同時代の事件をただちに作品にして興行にする速さは、現代の報道に近い。上演は大当たりし、以後、心中を扱う作品が次々と作られ、幕府が規制するに至る。

作品の核にあるのは義理と人情の板ばさみである。奉公先への義務、店の金、親への孝——捨てられないものがあり、その一方に抗えない情がある。両立しないまま追い詰められて人が死ぬ。同時代の町人の世界を扱うと、過去の武家の事件を扱う時代物に分かれ、前者が代表作を占める。フランス古典主義の悲劇が義務と情念の対立を描いたのと構図が似ているが、あちらの主人公が王侯であるのに対し、こちらは醤油屋の手代や紙屋の主人である。

浄瑠璃はこの後も書かれ、竹田出雲(たけだいずも)らの『仮名手本忠臣蔵』(1748年)が最大の当たり作になった。歌舞伎では19世紀に鶴屋南北(つるやなんぼく)が『東海道四谷怪談』(1825年)で怪談と社会の底辺を結びつけ、幕末には河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が盗賊を主人公にする作品を書いている。

読本の長篇と、滑稽本の笑いが並び立った

18世紀後半から、より複雑な小説が現れる。

上田秋成雨月物語(1776年)は怪異譚の連作である。中国の白話小説や日本の古典を下敷きにしつつ、格調の高い擬古文で書かれている。死者が現れ、執念が形をとる。単なる怪談ではなく、人間の妄執を主題にした短篇集として読まれてきた。

滝沢馬琴(曲亭馬琴)南総里見八犬伝(1814〜1842年)は、二十八年をかけて完成した大長篇である。八つの玉を持つ八人の犬士が集結する。善が栄え悪が滅びるという勧善懲悪の構造が明確で、この構造こそ、近代坪内逍遥が否定した対象になる。

一方で十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のような滑稽本が大衆的な人気を得た。二人組が東海道を歩き、行く先々で失敗する。筋らしい筋はなく、会話の可笑しみで読ませる。重厚な長篇と軽い笑いの本が、同じ時期に並び立っている。

本居宣長は、源氏物語を道徳の書から解放した

文学作品と並んで、この時代にはが起こる。儒教や仏教が入る前の日本の姿を、古典を実証的に読むことで明らかにしようとする学問である。

本居宣長は三十数年をかけて古事記の注釈『古事記伝』を完成させた。読めなくなっていた古代の文章を、字の一つずつから読み解く仕事である。

文学史でさらに重要なのは、その源氏物語論である。それまでこの物語は、儒教・仏教の枠組みで、淫らな話だが教訓がある、という形で弁護されてきた。宣長はそれを退け、この物語が書いたのは教訓ではないとし、を描いたものだと論じた。道徳の道具としてではなく、人の心が動くさまを描いたものとして読む——この主張が、日本の文学批評の出発点の一つとされる。

同じ国学の系譜で、賀茂真淵(かものまぶち)は万葉集の素朴な調子を「ますらをぶり」として高く評価した。古典をどう読むかという議論が、この時代に一つの学問として成立している。

近世が残したのは、商品としての本と職業作家

中身
出版が主題を決めた町人が買うから、金と色と義理人情が書かれた
職業作家の登場書いて食う人間が現れた
速さ心中事件が一月で舞台になる興行の速度
検閲との隣接洒落本・人情本は幕府の取り締まりで作者が処罰された
古典の再読本居宣長が文学を文学として読む道を開いた

そして1868年、明治維新を迎える。ここで日本文学は上代以来二度目の、外から来たものを取り込んで自分を作り変える作業に入る。今度入ってくるのは文字ではなく、西洋の小説とその文体である。

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