フランス中世

フランス文学 中世

通史では、この時代を「声で語られた文学」と要約した。ここではその中身を開く。

最初に押さえるべきなのは、この時代の作品を黙読すると必ず退屈に見えるということである。同じ言い回しが何度も出てきて、話の運びは単調で、心理描写がほとんどない。しかしそれは書き手の技量の問題ではない。これらは読まれるためではなく、人前で声に出して演じられるために作られたからである。

前提が違う。その前提を押さえずに読むと、中世文学はただ古くて拙いものに見えてしまう。

誰が、どこで聞いていたか

十一世紀から十三世紀のフランスで、文学は次のような場で成立していた。

つまりフランス語で書かれた文学は、はじめから「格下」の側にあった。格の高いことはラテン語で書く。この構図は16世紀まで続く。

そして聞き手のほとんどが字を読めない。作品は耳から入り、記憶を頼りに伝えられた。決まり文句の反復も、単純明快な筋も、この条件から出てくる技術である。

武勲詩 — 集団の記憶としての文学

現存する最初のまとまったフランス語文学がローランの歌である。十一世紀末の成立とされる。

もとになった史実は小さい。七七八年、シャルルマーニュ軍がスペインから引き上げる途中、ピレネーの峠で後衛が襲われた。襲ったのはバスク人で、規模も限られていた。

それが三百年のあいだに変形する。相手はイスラム教徒の大軍になり、後衛を率いたローランは裏切りによって死ぬ英雄になり、事件は異教徒との聖戦になった。十字軍の時代の価値観が、過去の出来事に遡って塗り重ねられている。

有名な場面がある。ローランは角笛を吹けば援軍が来ると分かっていながら、恥だとして吹かない。全滅が確定してから吹き、こめかみの血管が切れて死ぬ。個人の判断ではなく、名誉という集団の掟が人を殺す構造になっている。

この型の作品は百篇以上残っており、まとめて武勲詩と呼ばれる。共通するのは、主君への忠誠・一族の名誉・信仰という価値であり、そこに恋愛はほとんど出てこない。

宮廷風恋愛 — 恋愛という発明

十二世紀、南フランスでトルバドゥールがオック語で歌いはじめる。ここで文学の主題が根本的に変わる。

型はこうである。歌い手は身分の高い既婚の貴婦人に仕える。恋は成就しない。むしろ成就しないこと、待ち続けること、その苦しみ自体を洗練させるのが目的になる。恋愛が、武勲と並ぶ「人を高める修練」として位置づけられた。

この考え方は当時としてまったく新しい。今日われわれが恋愛について当然と思っている多くのこと——相手を理想化する、想いを打ち明けられずに苦しむ、恋が人を成長させる——は、ここで文学の型として作られたものである。

型は北フランスへ渡り、クレチアン・ド・トロワの手でアーサー王物語と結びついた。十二世紀後半、シャンパーニュ伯の宮廷で書いている。彼が作った物語群からランスロ、ペルスヴァル、聖杯探索といった主題が出て、ヨーロッパ中に広がった。 ドイツでは『パルチヴァール』になり、イギリスでは後に『アーサー王の死』になる。

『ランスロまたは荷車の騎士』では、騎士が王妃を救うために、罪人が乗る荷車に乗るという恥辱を引き受ける。忠誠と愛が両立しなくなるという主題がここで立ち上がり、以後の文学が何度も繰り返すことになる。

十三世紀以降 — 笑いと寓意

十三世紀に入ると、貴族の文学とは別の系統が育つ。

騎士道の理想を歌う文学と、それを笑う文学が同時に存在していた。 どちらか一方だけを見ると時代を見誤る。

ヴィヨン — 中世の終わりに聞こえる肉声

十五世紀のフランソワ・ヴィヨンで、中世文学の非人称性が破れる。

彼の生涯は記録に残っている。パリ大学で学び、司祭を殺す事件に関わり、窃盗で追われ、投獄され、拷問を受け、死刑判決を受けて追放に減刑された。一四六三年、三十二歳ごろに追放されて以後、消息が完全に途絶える。

彼が定型詩の中に持ち込んだのは、自分自身の声だった。過ぎた時間、失われた美しさ、迫りくる死、そして絞首台。「去年の雪、いまいずこ」という一句が知られている。

有名な『絞首罪人のバラード』は、処刑されて風に揺れる自分たちの死体を、通りがかりの人に向かって語らせる詩である。まだ死んでいない男が、死んだ自分を書いている。

彼が特別なのは、告白しているからではない。中世の詩形式(バラード、遺言状のパロディ)を完全に守りながら、その内側に取り替えのきかない個人を入れた点にある。形式は中世のもので、中にいる人間は近代に近い。

この時代をどう読むか

三つ押さえれば十分である。

中身
声の文学読むものではなく演じるもの。反復や定型は技術であって欠点ではない
恋愛の発明宮廷風恋愛が、その後八百年の恋愛の語り方を決めた
個人の登場フランソワ・ヴィヨンで、形式の内側に一人の人間が入る

三つ目が16世紀へつながる。ミシェル・ド・モンテーニュが「私自身が私の書物の素材だ」と書くまで、あと百年である。

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