平家物語
- 作者
- 作者不詳
- 成立
- 13世紀
- 国
- 日本
- 時代
- 中世
概要
目で読む本ではなく、耳で聞く物語だった。盲目の琵琶法師が琵琶を弾きながら語り、それを聞く。これを平曲という。声に出したときの調子で書かれているため、七五調が続き、同じ言い回しが繰り返される。
内容は、平家一門が権力を握り、そして滅びるまでの二十年ほどである。清盛が権勢をきわめ、一門が官職を独占し、驕り、そして源氏の挙兵によって都を落ち、西へ逃れ、壇ノ浦で滅びる。
冒頭の「祇園精舎の鐘の声」が、この物語の立場をすべて示している。盛んな者は必ず衰える。この一文を最初に置いてから、二十年の出来事を語り始める。結末を先に告げて、そこへ向かう過程を見せる構造である。
書かれているのは合戦だけではない。むしろ印象に残るのは、負ける側の個人の場面である。少年武者の首を取らねばならなくなった老武者。都を落ちる際に和歌の師のもとへ引き返す武将。海に沈む幼い天皇。平家は敵として書かれていない。
成立の事情ははっきりしない。徒然草には、信濃前司行長という人物が作り、生仏という盲目の僧に語らせた、という記述がある。だがこれが事実かは分からない。語られるうちに変わっていったため、写本によって内容が大きく違う。 語り本と読み本の系統があり、巻数も収める話も一致しない。
背景には仏教の無常観がある。だが、それは全体を貫く教訓というより、次々に人が死んでいく事実に対して置かれた枠組みに近い。
文学史における評価と影響
軍記物語の最高峰とされ、日本文学のなかでも後世への素材の供給量が突出している。
まず、能の演目に大量に取り込まれた。敦盛、清経、忠度、実盛、俊寛。武将の亡霊が現れて生前を語る、という能の型は、この物語の人物を使って成立している。
浄瑠璃と歌舞伎にも受け継がれた。義経と弁慶、静御前、義経の逃避行。これらは後世の脚色を多く含むが、出発点はこの物語にある。
近代以降も、小説、映画、漫画がここから素材を取り続けている。「驕る平家は久しからず」「扇の的」「敦盛の最期」といった言い回しが、作品を読んでいない人にも通じるという状態が続いてきた。
文体の影響も大きい。七五調の対句、漢語と和語を混ぜた文章。この文体が「和漢混淆文」と呼ばれ、以後の日本語の書き言葉の一つの型になった。
構造としての評価もある。冒頭で結論を示し、そこへ向かって滅びを描く。個々の場面では、殺す側と殺される側の双方に事情を持たせる。勝者を称えず、敗者を貶めない。この視点が、後の日本の戦記の書き方を方向づけた。
あらすじ
前半——清盛の栄華。
平清盛は保元・平治の乱で勝ち、太政大臣にまで昇る。娘を天皇の后とし、その子が安徳天皇として即位する。一門が官職を占め、平家にあらずんば人にあらず、と言われる状態になる。
だが反発が起こる。鹿ケ谷で平家打倒の謀議が発覚し、加担した俊寛は鬼界ケ島に流される。二人の同輩は赦されて船で去るが、俊寛だけが赦されない。船に取りすがり、置き去りにされる場面は、この物語で最も知られた挿話の一つにあたる。
清盛は法皇を幽閉し、都を福原へ移す。人々の反発はさらに強まる。やがて清盛は高熱を発して死ぬ。 体が焼けるように熱く、水を浴びせると湯になったと語られる。
後半——滅亡。
源頼朝が挙兵し、木曾義仲が都へ攻め上る。平家は幼い安徳天皇と三種の神器を連れて都を落ちる。
このとき、平忠度は都を出た後に引き返し、和歌の師である藤原俊成のもとを訪ねて自分の歌を託す。後にその歌は勅撰集に採られるが、朝敵となったため詠み人知らずとして載る。
一の谷の合戦。熊谷直実は逃げる若武者を組み伏せる。兜を取ると、自分の息子と同じ年頃の少年だった。逃がそうとするが味方が迫り、泣きながら首を取る。これが平敦盛である。 直実はこの後に出家する。
屋島の合戦では、扇の的の場面が語られる。平家方が船に扇を立て、射てみよと挑発する。那須与一が馬を海に乗り入れ、揺れる的を射抜く。敵味方の双方が声を上げて褒める。
壇ノ浦。海上での決戦に平家は敗れる。武将たちは次々に海に飛び込む。清盛の妻二位尼は、八歳の安徳天皇を抱き、神器とともに海へ入る。幼帝が、どこへ行くのかと尋ねる。 二位尼は、波の下にも都がございます、と答えて身を投じる。
灌頂巻。
生き残った清盛の娘建礼門院は、大原の寂光院で出家して暮らしている。後白河法皇がそこを訪ねる。建礼門院は、自分が見てきたものを六道になぞらえて語る。栄華、都落ち、飢え、そして壇ノ浦。語り終えて、物語は終わる。