日本上代

日本文学 上代

通史では、この時代を「漢字を音として使う」と要約した。ここではその中身を開く。

上代文学を読むときに最初に理解すべきなのは、書き手が直面していた技術的な困難である。文学的な問題ではない。もっと手前の、物理的な問題である。

日本語を書き表す文字が、この世に存在しなかった。

何が困難だったのか

中国から漢字が入ってきた。だが漢字は中国語を書くための文字であり、中国語と日本語では語順が違う(中国語は「動詞→目的語」、日本語は「目的語→動詞」)。助詞もない。活用もない。

つまり漢字をそのまま使うと、書けるのは中国語であって日本語ではない。

書き手が採った方法は三つに分かれる。

方法内容問題
漢文で書く中国語として正しく書く日本語の音や固有名詞が消える
変体漢文漢字を使いつつ日本語の語順に寄せる読み方が一定しない
万葉仮名漢字の音だけを借りて一字一音で書く字数が膨大になる

三つ目が決定的だった。漢字から意味を剥ぎ取り、音符として使う。 例えば「山」を意味で書けば「山」だが、音で書けば「也麻」となる。表意文字を無理やり表音文字として使う荒技である。

この方法によって、日本語が初めてそのままの姿で紙の上に固定された。

古事記 — 混ざった文体

古事記は七一二年に成立した。序文によれば、稗田阿礼が誦習していたものを太安万侶が筆録したとされる。

この書物の文章は奇妙である。漢文で書こうとしながら、要所で崩れている。 神の名前、地名、そして歌の部分では、漢字を音として当てて日本語を残している。

なぜ崩したのか。太安万侶は序文でその理由を述べている。漢文に訳してしまうと本来の意味が伝わらず、かといって全部を音で書けば長くなりすぎる、だから場合によって使い分けた、という趣旨である。

日本最古の書物が、日本語をどう書くかについての苦悩の記録になっている。

内容は神々の系譜から始まり、天皇の系譜へ続く。国家の正統性を語る書物だが、同時に説話として面白い。イザナキが死んだ妻を追って黄泉の国へ行き、見るなと言われて見てしまう話。ヤマトタケルが各地を平定しながら、最後は望郷の歌を残して死ぬ話。

なお、ほぼ同時期に古事記と別に『日本書紀』(七二〇年)が編まれている。こちらは正式な漢文で書かれた正史であり、対外的な体裁を整えたものである。同じ時期に、同じ王権が、二つの違う文体で歴史を書いた。

万葉集 — 音として使い倒す

万葉集は七五九年以降の成立とされる。二十巻、約四千五百首。

表記は万葉仮名が全面的に使われている。漢字の音だけを借りて日本語の歌を書き取る方法である。これが後に平仮名・片仮名を生む母体になる(中古で扱う)。

この歌集の際立った特徴は、歌い手の幅の広さである。

日本文学は、その最初期において既に、身分の低い者の声を書き留めている。 同時代のヨーロッパでは、俗語で書かれた文学がまだ存在しないことを考えると、これは特筆に値する。

ただし注意も要る。防人歌や東歌がどこまで当人の作のままか、収録の際に手が加わっていないかについては議論がある。「民衆の生の声がそのまま残っている」と単純に受け取るべきではない。

主な歌人

[[kakinomoto-no-hitomaro]](七世紀後半〜八世紀初頭)は宮廷歌人とされる。長歌の形式を完成させ、皇子の死を悼む挽歌などで、公的な悲しみを荘重な調べで歌った。生涯についてはほとんど分かっていない。

[[yamanoue-no-okura]]は他の歌人と主題が違う。貧しさ、病、老い、子への愛。「貧窮問答歌」は、貧しい者とさらに貧しい者が互いの窮状を語り合う形式で、税を取り立てる里長の声まで出てくる。社会の下層を直接主題にした歌は、この時代に他に類例が少ない。

[[otomo-no-yakamochi]]は万葉集の最終的な編纂に深く関わったとされる。名門大伴氏の当主でありながら、政変のたびに一族が没落していく時代を生きた。彼の歌には繊細で内省的なものが多く、次の時代([中古](/japan/chuko/))の感受性を先取りしていると評価される。

この時代をどう読むか

中身
文字の獲得漢字から意味を剥いで音符にした。ここから仮名が生まれる
二重言語のはじまり漢文(公)と日本語(私)の使い分けが古事記と『日本書紀』に既にある
声の広さ天皇から防人まで。最初期から身分を越えて歌が集められた

二つ目の「二重言語」は、この後千年以上続く日本文学の基本構造になる。中古では漢文=男性の公的な文字、仮名=女性の私的な文字という序列が生まれ、その序列が逆説的に源氏物語を生むことになる。

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