上代の日本文学 — 古事記・万葉集と万葉仮名

上代は、文字による記録が残り始めてから、都が平安京へ移る794年までを指す。日本史では飛鳥時代と奈良時代にあたる。この時代の文学を読むうえで最初に押さえるのは、日本語を書き表す文字が存在しなかったという一点である。

文字は漢字しかなく、日本語をそのまま書けなかった

中国から漢字が入ってきた。だが漢字は中国語を書くための文字であり、中国語と日本語では語順が違う(中国語は動詞のあとに目的語が来るが、日本語では目的語が先に来る)。助詞もなく、活用もない。漢字をそのまま使うと、書けるのは中国語であって日本語ではない。

書き手が採った方法は三つに分かれる。

方法内容問題
漢文中国語として正しく書く日本語の音や固有名詞が消える
漢字を使いつつ日本語の語順に寄せる読み方が一定しない
万葉仮名漢字の音だけを借りて一字一音で書く字数が膨大になる

三つ目が決定的だった。漢字から意味を剥ぎ取り、音符として使う。「山」を意味で書けば「山」だが、音で書けば「也麻」となる。この表記法を万葉仮名と呼ぶ。表意文字を無理やり表音文字として使うこの方法によって、日本語が初めてそのままの姿で紙の上に固定された。

現存する上代の作品は五点

歴史書が二つ、地誌、漢詩集、歌集。書き方の欄が、それぞれ上の三つの方法のどれで書かれたかを示す。

作品成立作者・編者種類書き方
古事記712年稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習、太安万侶(おおのやすまろ)が筆録歴史書・神話漢文に万葉仮名を交える
『日本書紀』720年舎人親王(とねりしんのう)ら正史(全30巻)正式な漢文
『風土記』713年以降諸国が編纂地誌漢文
『懐風藻』751年編者未詳漢詩集(現存最古)漢文
万葉集759年以降大伴家持が最終段階に関与歌集(全20巻)万葉仮名

古事記と日本書紀は、同じ歴史を違う文体で書いた

古事記は712年に成立した。序文によれば、天武天皇に仕えた稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた伝承を、元明天皇の命により官人の太安万侶(おおのやすまろ)が書き取ったものだという。当時、古い伝承は文字ではなく人の記憶で伝えられていた。

その文章は、漢文で書こうとしながら要所で崩れている。神の名前、地名、そして歌の部分では、漢字を音として当てて日本語を残している。崩した理由は序文に書かれている。漢文に訳すと本来の意味が伝わらず、かといって全部を音で書けば長くなりすぎる、だから場合によって使い分けた、という趣旨である。現存する日本最古の書物が、日本語をどう書くかについての苦心の記録になっている。

内容は神々の系譜から始まり、天皇の系譜へ続く。国家の正統性を語る書物だが、同時に説話として読める。イザナキが死んだ妻を追って黄泉の国へ行き、見るなと言われて見てしまう話。ヤマトタケルが各地を平定しながら、最後は望郷の歌を残して死ぬ話。

八年後に編まれた『日本書紀』(720年)は、天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)を責任者として編纂された。こちらは正式な漢文で書かれた正史であり、中国に対する体裁を整えたものである。同じ時期に、同じ王権が、二つの違う文体で歴史を書いた。この後千年以上続く漢文と日本語の二重生活は、ここから始まる。

万葉集は天皇から防人までの歌を集める

万葉集は759年以降の成立とされる。全20巻、約4500首。表記には万葉仮名が全面的に使われており、この書き方が、後に平仮名・片仮名を生む母体になる。

収められた歌は、内容によって三つの枠に分類されている。この枠をという。

部立内容
雑歌行幸・宴・旅など、公の場の歌
相聞恋の歌。男女の贈答が中心
挽歌死者を悼む歌

歌の形式も一つではない。

歌体音数収録数の目安
短歌五七五七七約4200首。大半を占める
五七を繰り返し、最後を五七七約260首。反歌を添えるのが通例
五七七・五七七約60首。以後は作られなくなる

歌の作られた時期による四期の区分も、この歌集を読むときの目安になっている。

年代主な歌人
第一期〜672年(壬申の乱まで)額田王(ぬかたのおおきみ)、有間皇子(ありまのみこ)
第二期〜710年(平城京遷都まで)柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、高市黒人(たけちのくろひと)
第三期〜733年頃山上憶良(やまのうえのおくら)、大伴旅人(おおとものたびと)、山部赤人(やまべのあかひと)
第四期〜759年大伴家持(おおとものやかもち)

この歌集で際立つのは歌い手の幅の広さである。天皇・皇族から、貴族・官人、東国から徴発されて九州の防備にあたった兵士(防人=さきもり)、東国の民衆の歌(東歌=あずまうた)、宴席で歌を詠んだ遊行女婦(うかれめ)まで入っている。同時代のヨーロッパでは、俗語で書かれた文学がまだ存在しないことを考えると、これは早い。

ただし注意も要る。防人歌や東歌がどこまで当人の作のままか、収録の際に手が加わっていないかについては議論がある。民衆の生の声がそのまま残っている、と単純に受け取ることはできない。

主な歌人は人麻呂・憶良・家持の三人

柿本人麻呂(7世紀後半〜8世紀初頭)は宮廷歌人だったとみられる。長歌の形式を完成させ、皇子の死を悼む挽歌などで、公的な悲しみを荘重な調べで歌った。生涯についてはほとんど分かっていない。

山上憶良は他の歌人と主題が違う。貧しさ、病、老い、子への愛。「貧窮問答歌」は、貧しい者とさらに貧しい者が互いの窮状を語り合う形式で、税を取り立てる里長の声まで出てくる。社会の下層を直接に主題とした歌は、この時代に他の例が少ない。

大伴家持万葉集の最終的な編纂に深く関わったとされる。第三期の歌人・大伴旅人の子にあたる。名門大伴氏の当主でありながら、政変のたびに一族が没落していく時代を生きた。歌には繊細で内省的なものが多く、次の時代の感受性を先取りしていると評価される。

上代が残したのは、仮名の母体と漢文との二重生活

中身
文字の獲得漢字から意味を剥いで音符にした。ここから仮名が生まれる
二重言語のはじまり漢文(公)と日本語(私)の使い分けが古事記と『日本書紀』に既にある
声の広さ天皇から防人まで。最初期から身分を越えて歌が集められた

二つ目の二重言語は、この後千年以上続く日本文学の基本構造になる。中古では、漢文が男性の公的な文字、仮名が女性の私的な文字という序列が生まれ、その序列が逆説的に源氏物語を生むことになる。

万葉集の歌風については、後世からの評価も定まっている。江戸中期の・賀茂真淵(かものまぶち)は、この歌集の素朴で力強い調子を「ますらをぶり」と呼んで高く評価し、古今和歌集以降の技巧的な歌を「たをやめぶり」として退けた。上代と中古を対立させて捉えるこの図式が、以後の万葉集の読まれ方を長く方向づけている。

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