萩原朔太郎

原綴
Hagiwara Sakutarō
生没
1886–1942
出身
群馬県東群馬郡前橋(現・前橋市)
日本
時代
近代

生涯

1886年、群馬県前橋の開業医の家に生まれた。裕福な家で、生活に困ることはなかったが、学業は振るわず、旧制中学と高校を落第・中退している。定職に就かないまま、長く家の経済に頼って詩を書いた。

音楽に傾倒し、マンドリンとギターを学んだ。演奏会を開き、後には音楽団体も主宰している。この音への関心が、後の詩作を支える。

1913年、雑誌『朱欒』に詩が掲載され、同じ号に載っていた室生犀星と知り合った。生涯の親友になる。北原白秋に師事し、犀星とともに詩誌を創刊した。

1917年、31歳で第一詩集月に吠えるを刊行する。これが日本の詩の流れを変えた。以後、詩集と詩論を発表し続けたが、私生活は安定しなかった。二度結婚し、二度離婚している。晩年は郷里との関係にも苦しんだ。1942年、急性肺炎により55歳で死去した。

作風

朔太郎は、日本語の詩を文語から口語へ移した。明治期の詩は、島崎藤村若菜集を含め、基本的に文語の七五調だった。「〜なりけり」で終わる、定型のリズムを持つ言葉である。話し言葉で書かれた詩は、詩として弱いと見なされていた。月に吠える(1917年)が、この前提を崩した。口語で書かれ、定型のリズムを持たず、それでも詩として成立している。

その支えになったのが、音への敏感さである。口語には七五調のような外形的なリズムがない。代わりに、語の選択と配置によって内側からリズムを作る。濁音の重ね方、母音の並び、行の切り方が計算されており、定型を捨てながら音楽性を失わないという難題を、実作で解いた。

主題も新しかった。病んだ身体の感覚、原因のない不安、都市のなかの孤独。「地面の底に顔があらはれ」「ますぐなるもの地面に生え」といった句のように、竹、犬、猫、病んだ手足といった具体的な事物が、不気味に歪んだ形で書かれる。近代人の内面の不安を、観念ではなく感覚として提示したことになる。ヨーロッパの象徴主義の影響下にあるが、それを日本語の口語で行った点が独自の達成である。

故郷への感情も繰り返し現れる。都会への憧れと、生まれ育った前橋への嫌悪が同居する。「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」(純情小曲集の「旅上」)は、行けないという前提から書かれている。憧れそのものより、憧れが実現しないという条件のほうが詩の中心にある。

作品

月に吠える(1917年)

第一詩集で、口語自由詩の出発点とされる。「竹」「地面の底の病気の顔」などを収める。

青猫(1923年)

第二詩集で、都会への憧れと倦怠を主題にする。

純情小曲集(1925年)

「旅上」「小景異情」を含む。

氷島(1934年)

口語を離れて文語に回帰した詩集である。近代詩を口語へ導いた本人が文語に戻ったことをどう評価するかで、意見が分かれている。

詩の原理(1928年)

詩論で、自身の考えを体系的にまとめたものである。

文学史における立ち位置と影響

朔太郎は近代日本の口語自由詩の確立者とされる。以後の詩人——中原中也西脇順三郎、そして戦後の詩人たち——は、この人が開いた場所から書き始めることになった。「日本近代詩は朔太郎から始まる」という言い方が定着している。

同時代では北原白秋に師事し、室生犀星と親交が深かった。前の世代が達成した文語の抒情から、口語の内面表現へ、という転換点にあたる。

晩年に文語へ回帰したことと、日本の伝統を擁護する文章を書いたことについては、評価が分かれている。時代の空気との関係で論じられることが多く、決着していない。娘の萩原葉子も作家である。著作権保護期間は満了しており、青空文庫で全文を読める。

作品

関連する文芸思潮・文学運動

登場する文学史