万葉集
- 作者
- 作者不詳
- 成立
- 759以降
- 国
- 日本
- 時代
- 上代
概要
日本に残っている最も古い歌集である。全二十巻、約4500首。四百年ほどのあいだに詠まれた歌が集まっている。
最大の特徴は詠み手の幅にある。天皇と皇族の歌があり、貴族の歌があり、そして農民、防人として九州に送られる兵士、東国の名もない人々の歌がある。これほど身分の幅が広い歌集は、この後の日本に出てこない。 次の古今和歌集以降、勅撰集は宮廷の歌人のものになる。
歌の内容も広い。恋、旅、宴、季節、死者を悼む歌。夫を待つ妻の歌、任地へ送られる兵士が親を思う歌、行き倒れの死者を見て詠む歌。日常の感情がそのまま歌になっている。
もう一つの特徴は表現の直截さである。技巧を凝らすより、思っていることをまっすぐ強く言う。後世が「ますらをぶり」——男性的で率直な調子——と呼んだのは、この性質にあたる。
書かれ方には問題がある。当時、日本語を書くための文字がなかった。そのため漢字の音と訓を借りて日本語を写した。これを万葉仮名という。読み方が一通りに決まらない歌が多数あり、現在の訓読は長い研究の積み重ねによる推定を含む。 いまも読みが確定していない歌がある。
編纂の経緯は分かっていない。誰かが一度に作ったのではなく、複数の歌集が段階的にまとまったとみられる。最終的な形に関わったのは大伴家持と考えられている。最後の歌は759年の家持の歌で、そこで巻が閉じられている。
文学史における評価と影響
日本文学の出発点に置かれる。ここに日本語の詩の型がほぼ出揃っている。
形式では、五七五七七の短歌がすでに主流になっている。同時に、長く続けて最後に反歌を添える長歌が多数残っており、この形式が生きていた最後の時代がここにあたる。
歌人では柿本人麻呂が最も高く評価される。皇子の死を悼む長歌、旅の歌、妻の死を悼む歌。荘重な長歌の形式を完成させた人物とされる。
山上憶良は特異な位置を占める。貧しさ、病、子を思う心といった、後の和歌がほとんど扱わなくなる主題を正面から詠んだ。「貧窮問答歌」がその代表にあたる。
受容は一度断絶している。平安時代に入ると万葉仮名が読めなくなり、この歌集は難解な古書になった。中世を通じて、読める人は限られていた。
大きく復活するのは江戸時代である。契沖が実証的な注釈を行い、賀茂真淵がこれを「ますらをぶり」として高く掲げた。古今和歌集以降の技巧的な歌を「たをやめぶり」として退け、万葉に帰れと主張した。 国学のこの運動が、以後の万葉評価の枠を決める。
近代でもこの評価は続く。正岡子規は歌よみに与ふる書で古今和歌集を痛烈に否定し、万葉を手本に掲げた。アララギ派の写生の歌はここから出ている。斎藤茂吉の長大な人麻呂研究もその延長にある。
一方で、この評価そのものが後世の作り物だという指摘も繰り返し出されてきた。素朴で率直という像は、技巧的な古今和歌集を否定するために持ち出された対立図式であり、万葉の歌にも高度な技巧はある。
なお元号「令和」は、この歌集の梅花の宴の序文から採られている。
内容
巻一・巻二は、天皇や皇族の歌を中心に年代順に並ぶ。雄略天皇の歌とされる一首が冒頭に置かれる。
柿本人麻呂は7世紀末から8世紀初頭の宮廷歌人である。皇子への挽歌、旅の歌、妻の死を悼む歌が残る。
山上憶良の「貧窮問答歌」では、貧しい者とさらに貧しい者が問答する形で、寒さと飢えと重税が詠まれる。子を思う歌も多く、銀も金も玉も子に及ばない、という歌が知られる。
大伴家持は最も多くの歌を残しており、越中に赴任していた時期の歌が目立つ。
防人歌は、九州の防備のために東国から徴発された兵士の歌である。妻や親との別れ、旅の不安が飾らない言葉で詠まれる。家持が任にあった際に集めたものとされる。
東歌は東国の民衆の歌を集めた巻にあたる。方言が交じり、労働や恋の情景が率直に詠まれる。中央の宮廷とは別の言葉が記録されている点で、言語資料としても重要である。