藤原定家

原綴
Fujiwara no Teika
生没
1162–1241
出身
京(現・京都市)
日本
時代
中世

生涯

1162年、京に生まれた。父の藤原俊成も当代の第一の歌人であり、歌の家に育った。

若い頃は官位に恵まれず、宮中で殿上人と争って除籍された事件もある。歌人としての評価が高まるにつれ、後鳥羽院に用いられるようになり、1201年、院の和歌所の寄人(よりうど)に任じられた。1205年に成立する新古今和歌集の撰者の一人になる。

だが後鳥羽院との関係は後に悪化した。歌をめぐる対立から院の勘気を被り、閉門を命じられている。1221年の承久の乱で院が隠岐に流された後、定家は幕府側の九条家に接近し、順調に昇進した。1235年ごろ、九番目の勅撰集『新勅撰和歌集』を単独で撰進する。晩年は古典の書写に力を注いだ。1241年、79歳で死去した。

作風

定家の歌は技巧の極致にある。新古今和歌集の歌風を主導したのはこの人である。

技法の中心が「本歌取り」である。古い有名な歌の一句二句を意識的に取り込み、元の歌の情景を自作に重ねる。読者が元歌を知っていることを前提に、引用によって奥行きを作る技法である。ほかに、句の切り方を操作して余韻を残す体言止めや初句切れ、情景を一枚の絵のように組み立てる構成が特徴になっている。

「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」は、何もないと言うことで、かえって景色を立ち上げる歌である。花も紅葉もない、と否定を重ねた末に、粗末な小屋のある秋の夕暮れが残る。

定家が掲げた理念は「有心(うしん)」である。歌には深い情趣がなければならない、という主張で、技巧はそのための手段として位置づけられる。

もう一つの仕事が、古典の書写と校訂である。定家は源氏物語土佐日記伊勢物語古今和歌集万葉集といった膨大な古典を書き写した。印刷がない時代、書物は書き写すことでしか伝わらず、写すたびに誤りが入る。平安の作品は、鎌倉時代にはすでに本文が乱れていた。定家は複数の写本を比べて本文を校訂している。この作業によって、古典学という営みが一つの水準に達した。

作品

新古今和歌集(1205年)

撰者の一人として関わった勅撰集で、中世和歌の到達点とされる。

小倉百人一首

定家が選んだとされる百首の選集である。日本で最も広く知られた和歌の選集であり、今日の歌がるたの元になっている。

拾遺愚草

自撰の家集である。

明月記

10代から死の数年前まで56年にわたって書き続けた漢文の日記である。宮廷の出来事、歌会、病気、人事への不満などが記される。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」——源平の争乱について、旗も戦も自分には関係ない——と書いた一節が有名で、戦乱の時代に歌の世界に閉じこもる態度として引かれる。天文の記録も含まれており、超新星の観測記録として天文学の分野でも参照されている。

文学史における立ち位置と影響

定家は中世和歌の頂点とされ、以後の歌学はこの人を規範とした。子孫からは「二条家」「京極家」「冷泉家」という歌道の家が分かれ、それぞれが正統を主張して争っている。冷泉家には今日まで定家の自筆資料が伝わっており、和歌研究の重要な資料になっている。

書写者としての功績は、文学史全体に効いている。今日われわれが読む源氏物語の本文は、「青表紙本」と呼ばれる定家系統の写本を基礎にしている。土佐日記に至っては、定家が紀貫之の自筆本を見て、字の形まで写し取った写本が残っている。原本は失われたため、これが原形を知る手がかりになっている。定家が写さなければ失われていた古典は少なくない。

松尾芭蕉をはじめ後世の詩人が繰り返し参照した。近代に正岡子規古今和歌集を否定した際も、新古今と定家の評価は比較的保たれている。

作品

登場する文学史