紀貫之

原綴
Ki no Tsurayuki
生没
872頃–945頃
出身
京(現・京都市)
日本
時代
中古

生涯

872年ごろ、京の紀氏に生まれた。紀氏はかつて有力な氏族だったが、この時期には藤原氏に押されて衰えており、貫之も高い官位には就いていない。歌の才によって宮廷に認められた人物である。

905年ごろ、醍醐天皇の命により古今和歌集の編纂に加わった。撰者は四人いたが、貫之がその中心だったとされる。

930年、土佐守(現在の高知県にあたる国の長官)に任じられ、四年あまり任地で過ごした。この赴任中に幼い娘を亡くしている。934年に任を終えて京へ戻る船旅を記したのが土佐日記である。945年ごろに没した。

作風

貫之の仕事は、和歌を私的な詠み物から公式の文学へ引き上げたことにある。9世紀の日本の宮廷では、漢詩が公的な文学だった。正式な場で作られ、勅命で編まれる詩集も漢詩集である。和歌は私的な贈答や恋の場のもので、格が一段下と見なされていた。古今和歌集は天皇の命令で編まれる最初の和歌集であり、これによって和歌の地位が変わった。勅撰という形式は以後五百年以上続き、二十一の勅撰和歌集が編まれることになる。

古今和歌集の仮名序は、日本語で書かれた最初期の本格的な文学論である。冒頭の「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」——和歌は人の心を種として、多くの言葉になったものである——はよく知られる。ここで主張されているのは、和歌が人の心から自然に生まれるものであること、生きとし生けるものすべてが歌を詠むこと、歌には天地を動かし鬼神を感動させる力があること、の三点である。日本の詩歌の価値を、漢詩とは別の原理で正当化したことになる。仮名で理屈を書けることを示した点も大きい。仮名は女性の使う略式の文字とされていたが、そこで論を展開してみせた。

歌そのものの作りは技巧的である。掛詞(一語に二つの意味を持たせる)や縁語(関連する語を配して連想を作る)を用い、理知的に構成する。「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」のように、夏に袖を濡らして掬った水が冬に凍り、立春の風がそれを解かすだろうか、と時間の推移を一首に畳み込む作り方をする。

作品

古今和歌集(905年頃)

最初の勅撰和歌集で、貫之は撰者の中心だった。その仮名序も貫之の筆とされる。

土佐日記(935年頃)

土佐守の任を終えて京へ帰る五十日あまりの船旅の記録である。冒頭は「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」——男がするという日記というものを、女の私もしてみようと思ってする——と始まる。貫之は男だが、女性の書き手を装い、仮名で書いた。当時、男が公的に書く日記は漢文であり、仮名で心情を含む文章を書くには女という設定が必要だった、という説明が一般的である。内容の中心にあるのは、土佐で亡くした娘への思いで、旅の記録の合間に繰り返しその喪失が戻ってくる。

文学史における立ち位置と影響

土佐日記は日本の仮名散文の出発点とされる。この後に『蜻蛉日記』、紫式部源氏物語清少納言枕草子が続く。平安の仮名文学の系譜は、ここから始まっている。

貫之の評価は、時代によって大きく振れた。古今和歌集の歌風——技巧的で理知的で、掛詞や縁語を用いる——は長く和歌の規範であり、中世を通じて貫之は歌聖として扱われた。

それを覆したのが正岡子規である。1898年の歌よみに与ふる書で、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と書いた。技巧に走り実感が乏しい、という批判である。子規が代わりに掲げたのは万葉集の直截さだった。千年続いた価値観を正面から引っくり返したこの断定は、近代短歌の出発点として作用した。

今日の一般的な評価は、子規の断定をそのまま受け取らず、古今和歌集の技巧を当時の美意識として理解する方向にある。

作品

登場する文学史