ドイツ通史

ドイツ文学史

ドイツ文学史を理解する鍵は、「ドイツ」という国が長らく存在しなかったことにある。

統一されたドイツ国家ができるのは一八七一年である。それ以前は数百の領邦に分かれ、宮廷ごとにフランス語が話され、学問はラテン語で書かれていた。ドイツ語で書くことは、フランス語とラテン語の両方に対する選択だった。

だからこの文学史では、国家より先に文学が国民を作ったという順序になる。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテフリードリヒ・シラーがヴァイマルという小さな公国で書いたものが、統一以前に「ドイツ文学」という枠を成立させた。

もう一つの特徴は、哲学との距離の近さである。カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガー。思想の言語と文学の言語が同じ場所で鍛えられたため、ドイツ文学は概念的な主題を正面から扱う傾向を持つ。

中世 — 宮廷叙事詩と恋愛歌

十二世紀から十三世紀、騎士文化の中でドイツ語の文学が形を得る。

ニーベルンゲンの歌(一二〇〇年頃)は、ジークフリートの死と、その復讐をめぐる叙事詩である。キリスト教以前の英雄伝説を素材にしておりローランの歌のような聖戦の枠組みを持たない。後にワーグナーの楽劇の素材になった。

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハパルチヴァールは、聖杯を求める騎士の物語である。クレチアン・ド・トロワのフランス語作品を下敷きにしており、フランスからドイツへの影響が見える。

叙情詩では、貴婦人への献身を歌うミンネザングが栄え、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデがその頂点とされる。

古典主義・ロマン主義 — 国民文学の成立

十八世紀後半、ドイツ文学が急速に成熟する。

前段階として、ゴットホルト・エフライム・レッシングがフランス古典主義の規則を批判し、ウィリアム・シェイクスピアを模範として提示した。フランスの規範から離脱してイギリスへ向かうという方向転換である。ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは民族の言語と民謡に文学の根拠を求めた。

一七七〇年代の疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)で、感情の噴出が肯定される。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ若きウェルテルの悩み(一七七四年)はヨーロッパ全土で熱狂的に読まれた。

その後、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテフリードリヒ・シラーはヴァイマルで古典主義へ向かう。古代ギリシャを模範とした調和の理想である。

ここで注意が要る。 この「古典主義」はフランス17世紀の古典主義とは別物である。時期は百年以上ずれ、規則の体系も異なり、模範とする対象も違う(フランスはローマ、ドイツはギリシャに重心がある)。同じ訳語が当てられているため混同されやすい。

並行してロマン主義が起こる。ノヴァーリスルートヴィヒ・ティークE・T・A・ホフマンフリードリヒ・ヘルダーリン。イェーナに集まった詩人たちが詩と哲学の融合を構想し、E・T・A・ホフマンは現実と幻想の境界が壊れる物語を書いた。ドイツ・ロマン主義はヨーロッパのロマン主義の出発点であり、イギリスフランスへ波及した。

ヤーコプ・グリムヴィルヘルム・グリムグリム童話(一八一二年以降)は、民話の収集という形でヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの思想を実践したものである。

19世紀 — 分裂と写実

一八四八年革命の挫折を経て、文学は政治的な理想から距離を取る。

ハインリヒ・ハイネはロマン派の抒情詩人として出発しながら、鋭い政治的諷刺を書いた。ユダヤ系であったため、後にナチス政権下で著作が焚書の対象になっている。

ゲオルク・ビューヒナーは二十三歳で早世したが、ヴォイツェク(未完)は社会の底辺の人間を主人公にした断片的な戯曲で、二十世紀に入って再評価され、表現主義以降の演劇に強い影響を与えた。

写実主義の系譜ではテオドール・フォンターネゴットフリート・ケラーアーダルベルト・シュティフターテオドール・シュトルムが地方社会と市民生活を描いた。フランスやイギリスに比べ、大都市を舞台にした社会小説が少ないのは、統一国家と巨大都市の成立が遅れたことと関係する。

世紀末にはフリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはこう言ったなどで、既存の価値の全面的な問い直しを行った。哲学書でありながら文学作品として読まれ、二十世紀の文学に広範な影響を与えた。

20世紀前半 — 頂点と、破局

二十世紀前半のドイツ語文学は、世界文学の中心の一つになる。

トーマス・マンブッデンブローク家の人々で市民階級の没落を描き、魔の山ではサナトリウムを舞台にヨーロッパの精神状況そのものを議論の形で提示した。

フランツ・カフカは説明を欠いた不条理な状況に人物を置いた。プラハのユダヤ系で、ドイツ語で書いた。どの共同体にも完全には属さない位置が作品の背景にあると読まれてきた。

ライナー・マリア・リルケドゥイノの悲歌で、存在と死をめぐる詩を書いた。ローベルト・ムージル特性のない男という未完の大長篇に取り組み、アルフレート・デーブリーンベルリン・アレクサンダー広場で都市の断片をモンタージュした。

そして一九三三年、ナチスが政権を掌握する。焚書が行われ、多くの作家が亡命した。 トーマス・マンはアメリカへ、ベルトルト・ブレヒトは各国を転々とした。ヴァルター・ベンヤミンは逃亡の途上で自ら命を絶ち、ヨーゼフ・ロートは亡命先のパリで没した。シュテファン・ツヴァイクは亡命先のブラジルで妻とともに自殺している。

ドイツ語文学は、この時期に地理的にも人的にも解体された。

戦後 — 書くことの倫理

戦後の中心的な問題は、ホロコーストの後に書くことがどう可能かである。

パウル・ツェラン死のフーガで強制収容所を主題にした。ルーマニア生まれのユダヤ系で、両親を収容所で失っている。加害者の言語であるドイツ語で書き続け、後年は言語そのものを解体するような詩へ向かった。一九七〇年にセーヌ川に身を投げた。

ギュンター・グラスブリキの太鼓(一九五九年)は、成長を拒む少年の視点からナチス期を描いた。戦後西ドイツが過去と向き合う契機の一つになった作品である。ただしグラス自身が晩年に、少年期に武装親衛隊に所属していた事実を公表し、大きな論争を呼んだ。

ハインリヒ・ベルは戦後社会の欺瞞を書き、インゲボルク・バッハマンは詩と散文で戦後の言語の問題を扱った。スイスのマックス・フリッシュフリードリヒ・デュレンマットもドイツ語文学の重要な部分をなす。

「ドイツ語文学」はドイツだけのものではない。 フランツ・カフカはプラハ、パウル・ツェランはルーマニア、エルフリーデ・イェリネクペーター・ハントケはオーストリア、マックス・フリッシュはスイス、ヘルタ・ミュラーはルーマニアのドイツ系である。国籍ではなく言語で括られる文学である点は、繰り返し確認しておく価値がある。

近年ではW・G・ゼーバルトアウステルリッツなどで、記憶と喪失を写真を交えた独特の散文で書いた。

この先へ

ドイツ文学史を貫くのは、言語が共同体を作り、そして言語が問われるという筋である。統一国家のない時代に文学が国民を作り、二十世紀にはその言語が加害の言語になった事実と向き合うことになった。

どこか一つに降りるなら古典主義・ロマン主義から。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを中心に、ドイツ文学が国際的な位置を得る過程が見える。

二十世紀の破局を追うなら20世紀前半戦後を続けて読むとよい。