ヨーゼフ・ロート

原綴
Joseph Roth
生没
1894–1939
出身
ブロディ(当時オーストリア=ハンガリー帝国、現・ウクライナ)
ドイツ
時代
20世紀前半

生涯

1894年、オーストリア=ハンガリー帝国の東端、ガリツィア地方のブロディに生まれた。ユダヤ人の家庭で、住民の多くがユダヤ人という町である。父は生まれる前に精神を病んで失踪した。

ウィーン大学で学び、第一次大戦にオーストリア軍として従軍した。帝国の崩壊を、その辺境の出身者として経験している。

戦後、ウィーンとベルリンで新聞記者になった。1920年代を通じてドイツ語圏で最も高給の記者の一人になり、旅行記と時評を大量に書いている。ソ連、ポーランド、アルバニア、イタリアを取材した。

私生活は不安定だった。妻フリーデリケが1929年に統合失調症を発症し、施設に入る。ロートはその治療費を負担し続け、生涯にわたる罪悪感を抱えた。妻は1940年、ナチスの安楽死政策によって殺されている。

1933年1月30日、ヒトラーが政権を取ったその日にドイツを離れた。以後パリを拠点に亡命生活を送る。ホテルを転々とし、カフェで書き、アルコールに依存した。

1939年5月、パリの貧民病院で死去した。44歳だった。肺炎とアルコール依存が死因である。

作風

ロートが書いたのは、帰属を失った人間である。

初期の作品は「帰還者」を扱った。戦争から戻ったが、戻るべき秩序がもう存在しない男たち。ホテルの部屋を渡り歩き、身分証を失い、どこの国民でもなくなる。ロート自身の生活と重なる主題である。

後期には、その失われた秩序そのものを書いた。ハプスブルク帝国は、多民族が一人の皇帝のもとで並存する仕組みだった。ドイツ人、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人、ユダヤ人。国民国家ではないからこそ、少数者にも居場所があった。その崩壊が、以後の破局の始まりだったという見方をとる。

ただし単純な懐古ではない。『ラデツキー行進曲』では、帝国の官僚制の硬直と、軍隊の無意味な儀礼が容赦なく書かれる。それを承知のうえで、なお失われたものを惜しむという二重の姿勢がある。

文体は簡潔で、細部の選択が的確である。記者としての訓練が出ている。一つの物の描写、一つの仕草で、状況全体を示す。感傷的になりうる場面でも、修辞を足さない。

ユダヤ人であることも主題である。『放浪のユダヤ人』は、東欧のユダヤ人が西欧の都市へ移り、そこで差別され、同化しようとして失敗する過程を書いたルポルタージュである。

作品

『果てしなき逃走』(1927年)

シベリアからウィーン、ベルリン、パリへと移動し、どこにも定着できない男を描く。

『放浪のユダヤ人』(1927年)

東欧ユダヤ人についてのルポルタージュである。

『ヨブ』(1930年)

ロシアのユダヤ人一家がアメリカへ移り、次々に不幸に見舞われる話である。旧約聖書のヨブ記が下敷きにある。

『ラデツキー行進曲』(1932年)

代表作である。ソルフェリーノの戦いで皇帝の命を救った一兵卒が貴族に列せられ、その子は官僚に、孫は軍人になる。三代にわたる没落が、帝国そのものの終わりと重なって進む。孫の世代は何もできないまま、辺境の駐屯地で酒と借金に沈んでいく。皇帝フランツ・ヨーゼフの死と、第一次大戦の勃発で終わる。

『皇帝の胸像』(1934年)

帝国が消えた後も皇帝への忠誠を保ち続ける老伯爵を書いた中篇である。

『聖なる酔っぱらいの伝説』(1939年)

最後の作品である。パリの橋の下で暮らす男が、見知らぬ紳士から金を渡され、それを教会へ返そうとして果たせないまま死ぬ。

日本語では『ラデツキー行進曲』と『聖なる酔っぱらいの伝説』が読める。

文学史における立ち位置と影響

ロートは、ハプスブルク帝国の崩壊を書いた作家の代表とされる。ムージルツヴァイクシュニッツラーらと同じ主題を扱いながら、その視点は帝国の辺境にある。中心から見た帝国ではなく、周縁のユダヤ人から見た帝国という位置が、この作家を独自にしている。

『ラデツキー行進曲』は、20世紀ドイツ語文学の主要な長篇の一つとされる。歴史の推移を一家の三代を通して書くという構成は、トーマス・マンブッデンブローク家の人々と並べて論じられる。

生前の評価は記者としてのほうが高かった。亡命後は困窮し、死後しばらく忘れられている。再評価が本格化したのは1970年代以降で、以後、亡命文学と中欧文学の文脈で読み直されてきた。

多民族国家の記憶を書いた作家として、東欧の国境が繰り返し引き直された20世紀を論じる際に参照される。クンデラらが提起した「中欧」という枠組みの議論でも、しばしば名が挙がる。

日本での紹介は遅く、1980年代以降である。近年になって訳書が増えている。

登場する文学史