フリードリヒ・ニーチェ

原綴
Friedrich Nietzsche
生没
1844–1900
出身
レッツェン(プロイセン王国、現・ザクセン=アンハルト州)
ドイツ
時代
19世紀

生涯

1844年、プロイセンの牧師の家に生まれた。五歳で父を失い、母と妹、祖母と伯母のいる家庭で育った。

古典語の名門校で学び、ボンとライプツィヒの大学で古典文献学を修めた。学生時代にショーペンハウアーの著作を読み、決定的な影響を受けている。

1869年、24歳でバーゼル大学の古典文献学の教授に就任した。学位論文も教授資格論文も提出していない異例の抜擢である。この頃、作曲家ワーグナーと親交を結んだ。

1872年の最初の著作『悲劇の誕生』は、学界から激しく批判された。文献学の方法を踏み外しているという理由で、以後、学生が集まらなくなる。

健康は早くから悪かった。激しい頭痛と嘔吐、視力の低下に苦しみ、1879年に34歳で大学を辞職する。以後十年、年金を頼りにスイス、イタリア、南フランスの各地を転々とした。気候の良い場所を求めての移動である。主要な著作はこの放浪の期間に書かれた。

ワーグナーとは1876年に決裂した。ワーグナーがキリスト教的な主題へ向かったことが理由とされる。以後、その批判を繰り返し書いている。

1882年、ルー・ザロメに求婚して断られた。妹エリーザベトとの関係もこの前後から悪化する。妹は反ユダヤ主義の運動家と結婚しており、ニーチェはそれを嫌悪した。

1889年1月、トリノの路上で倒れ、以後正気に戻らなかった。鞭打たれる馬の首を抱いて泣き崩れたという伝承がある。1900年、55歳で死去するまでの十一年を、母と妹の看護のもとで過ごした。

作風

ニーチェの文章は、体系ではなく断章として書かれている。

番号を振った短い節が並び、それぞれが独立している。長さは一行から数ページまでさまざまで、順に読んでも議論が積み上がっていくわけではない。同じ主題が別の角度から何度も現れ、前の節と矛盾することもある。

修辞が濃い。比喩、皮肉、感嘆、呼びかけ。読者を挑発し、揺さぶる書き方をする。哲学の著作としては異例で、そのためニーチェは文学の側からも読まれてきた。

方法として特徴的なのは、価値の来歴を問うことである。ある道徳が正しいかどうかではなく、それが誰にとって都合よく、どこから生まれたのかを追う。『道徳の系譜』では、善悪の区別が弱者の側からの評価の逆転によって生じたと論じた。

キリスト教への批判が全体を貫く。神は死んだという有名な言葉は、勝利宣言ではない。それまで価値の根拠だったものが失われ、何を基準にしてよいか分からなくなる事態の指摘である。ニヒリズムをどう越えるかが、以後の課題になる。

『ツァラトゥストラはこう語った』では書き方が変わる。断章ではなく、聖書を模した語りの形式をとり、寓話と詩が混在する。永劫回帰、超人、力への意志といった概念は、いずれも定義されないまま比喩として提示される。この曖昧さが、後の多様な解釈を生んだ。

作品

『悲劇の誕生』(1872年)

最初の著作である。ギリシャ悲劇を、アポロン的なものとディオニュソス的なものの緊張から説明した。エウリピデスがソクラテス的な合理主義を持ち込んで悲劇を殺した、という主張を含む。

『人間的な、あまりに人間的な』(1878年)から断章形式が本格化する。

『悦ばしき知識』(1882年)には、神は死んだという言葉が現れる。

『ツァラトゥストラはこう語った』(1883〜85年)

最もよく読まれている。山を降りた予言者ツァラトゥストラが、人々に語りかける形式をとる。第四部は当初、自費で四十部だけ印刷された。

『善悪の彼岸』(1886年)と『道徳の系譜』(1887年)は、系譜学の方法が最も明確に出た著作である。

『この人を見よ』(執筆1888年、刊行1908年)

自伝で、「なぜ私はこんなに賢いのか」といった章題が並ぶ。倒れる直前に書かれた。

日本語で読み始めるなら、『ツァラトゥストラ』より『善悪の彼岸』や『道徳の系譜』のほうが議論を追いやすい。『ツァラトゥストラ』は比喩が多く、前提の知識を要する。

文学史における立ち位置と影響

ニーチェの影響は哲学より文学に広く及んだ。

20世紀初頭のヨーロッパで、既存の価値を疑う姿勢の出発点として受け取られた。トーマス・マンは生涯にわたってニーチェを読み、『ファウストゥス博士』の主人公にその生涯を重ねている。ヘッセムージルリルケジッドカミュイェイツらが、それぞれの形で受容した。

日本でも影響が大きい。明治末期に高山樗牛らが紹介し、大正期から昭和にかけて広く読まれた。森鷗外芥川龍之介三島由紀夫がそれぞれニーチェに言及している。

戦後のフランス哲学からの参照も大きい。フーコーは系譜学の方法を自分の仕事の基礎に据え、ドゥルーズはニーチェ論を書いた。デリダも含め、この時期の思想の多くがニーチェの読み直しから出発している。

一方、ナチスによる利用という問題がある。妹エリーザベトが遺稿を管理し、自分の反ユダヤ主義的な立場に沿うよう編集して『力への意志』として刊行した。ニーチェ自身は反ユダヤ主義とドイツ民族主義を繰り返し攻撃していたが、この編集された像が長く流通した。1960年代以降の文献学的な校訂によって、遺稿の実態が明らかにされている。

文体そのものの影響も無視できない。断章によって思考を書くという形式は、20世紀のエッセイと批評に広く受け継がれた。

作品

登場する文学史