ヤーコプ・グリム
- 原綴
- Jacob Grimm
- 生没
- 1785–1863
- 出身
- ハーナウ(ヘッセン=カッセル方伯領)
- 国
- ドイツ
- 時代
- 古典主義・ロマン主義
生涯
1785年、ヘッセンのハーナウに法律家の子として生まれた。翌年に弟ヴィルヘルムが生まれ、以後、生涯の大半を共に暮らすことになる。
十一歳で父を失い、家は困窮した。マールブルク大学で法律を学ぶが、教授サヴィニーの影響で、法や慣習を歴史的に研究する方向へ関心を移す。
ナポレオン支配下のヴェストファーレン王国で図書館司書を務めた。この時期から、兄弟で民間伝承の収集を始めている。1812年に『子どもと家庭の童話』初版を刊行した。
1830年、兄弟でゲッティンゲン大学に移った。ヤーコプは教授兼司書、ヴィルヘルムは司書である。
1837年、ハノーファー王が憲法を停止したことに抗議し、七人の教授が連名で反対を表明した。「ゲッティンゲン七教授事件」と呼ばれる。兄弟はいずれも罷免され、ヤーコプは国外追放された。この抗議は、当時のドイツで学問の自由をめぐる象徴的な事件になっている。
1841年、プロイセン王に招かれてベルリンへ移った。以後、兄弟でベルリン科学アカデミーの会員として研究を続ける。
1848年、フランクフルト国民議会の議員に選ばれた。ドイツ統一を目指す議会で、席次の最前列を与えられている。
1859年に弟ヴィルヘルムが、1863年にヤーコプ自身が死去した。78歳だった。
作風
ヤーコプ・グリムの仕事は、言語と伝承を歴史的に扱うことにある。
童話の収集はその一部である。目的は子ども向けの読み物を作ることではなく、ドイツ語圏の古い言葉と物語を、失われる前に記録することだった。当時のドイツは小国に分裂し、フランスの支配下にあった。共通の伝承を集めることには、国民としての一体性を求める意識が伴っている。
収集の方法は、農民から直接聞き取ったというより、知人や中産階級の女性から聞いた話が多い。フランス系の家庭から得た話も含まれる。純粋にドイツ的な民衆の伝承という当初の建前は、後の研究によって修正された。
版を重ねるごとに文章は手が加えられた。この改稿は主に弟ヴィルヘルムが担当している。粗野な表現が整えられ、性的な要素が削られ、残酷な描写はむしろ強められることもあった。実母を継母に書き換えた例が知られる。第七版(1857年)が定本になった。
言語学者としての仕事のほうが、本人にとっては中心だった。『ドイツ語文法』では、ゲルマン語派の子音が規則的に変化していることを示した。ラテン語のpがゲルマン語ではfになる、といった対応が例外なく起きる。これが「グリムの法則」と呼ばれ、言語の変化が偶然ではなく法則に従うことを示した最初期の成果になった。
作品
『子どもと家庭の童話』(初版1812〜15年、第七版1857年)
最もよく知られている。「白雪姫」「ヘンゼルとグレーテル」「灰かぶり(シンデレラ)」「ラプンツェル」「ブレーメンの音楽隊」などを含む。
『ドイツ伝説集』(1816〜18年)
童話とは別に、土地に結びついた伝説を集めたものである。
『ドイツ語文法』(1819〜37年)
ゲルマン諸語の歴史的な比較を行った著作である。グリムの法則はこの第二版で示された。
『ドイツ神話学』(1835年)
キリスト教以前のゲルマンの信仰を、伝承と言語から再構成しようとした試みである。
『ドイツ語辞典』
1838年に着手された。語の意味を歴史的な用例から示す大規模な辞典で、兄弟の生前にはAからFまでしか進まなかった。後継者に引き継がれ、完成したのは1961年、着手から123年後である。
日本語では童話が各種の訳で読める。初版と第七版で内容が違うため、どの版に基づく訳かを確認する意味がある。
文学史における立ち位置と影響
グリム童話は、世界で最も広く読まれた書物の一つである。聖書に次ぐ翻訳言語数を持つとされ、160を超える言語に訳された。
児童文学の成立に決定的な役割を果たした。もともと学術的な意図で集められたものが、挿絵入りの版を通じて子どもの読み物として定着していく。以後、口承の物語を書物として子どもに与えるという形式が各国に広がった。
民俗学と説話研究の出発点にもなっている。伝承を収集し、比較し、類型として分類するという方法は、ここから体系化された。各国で同種の収集が始まり、日本では柳田国男の仕事がこの流れのなかにある。
言語学における位置はさらに大きい。グリムの法則は、比較言語学が科学として成立する契機になった。19世紀後半の言語学は、この方向を精密化することで発展している。
文学への影響も広い。ホフマン以後の幻想文学、20世紀のカーターらによる童話の書き換え、そして現代の映像作品まで、素材としての参照が絶えない。
童話の残酷さをめぐる議論も続いている。子どもに与えるべきかという問いは19世紀から繰り返され、精神分析の側からは、その残酷さこそが子どもの不安を扱う機能を持つという読み方も出された。
日本では明治期から翻訳され、教科書にも採られて広く知られている。