ドイツ戦後

ドイツ文学 戦後

通史では、この時代を「過去にどう向き合うか」と要約した。ここではその中身を開く。

一九四五年、ドイツ語文学は他国と違う位置から再出発する。戦争の被害を書くのではなく、自国が何をしたかを書くという課題がある。

しかも、その言語自体が問題になった。 収容所の命令も、宣伝も、同じドイツ語で行われていた。

瓦礫の文学と「四七年グループ」

戦後直後の作品は「瓦礫の文学(Trümmerliteratur)」と呼ばれる。破壊された街、帰還兵、飢え。装飾を排した短い文体が選ばれた。前の時代の言語をそのまま使うことへの不信がある。

一九四七年、作家たちの集まり「四七年グループ」が始まる。組織でも綱領でもなく、新作を朗読して相互に批評する会だった。ハインリヒ・ベルギュンター・グラスインゲボルク・バッハマンパウル・ツェランらが参加している。戦後西ドイツの文学の中心的な場として機能した。

ツェラン — 加害者の言語で書く

パウル・ツェランはチェルノヴィッツ(現ウクライナ)のユダヤ系の家に生まれた。両親は強制収容所で殺され、本人は労働収容所を生き延びた。

死のフーガ(死のフーガ)は、収容所を主題にした詩である。「朝の黒いミルク」という句が繰り返され、フーガの形式を模した反復構造をとる。

彼はドイツ語で書き続けた。 母語であり、母が話した言葉であり、同時に殺した側の言語である。 この二重性が、彼の詩の前提になっている。

後年、詩はさらに短く、通常の語彙から離れていく。言葉を壊して作り直すような書き方になる。一九七〇年、パリのセーヌ川に身を投げた。

「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉は、この時代の議論の中心にあった。アドルノ自身が後に留保をつけているが、問い自体は残り続けている。

ベル、グラス — 過去にどう向き合うか

ハインリヒ・ベルは、戦争と戦後の西ドイツ社会を書いた。教会と経済成長への批判が一貫している。「小市民の側から見た戦後」という視点で、一九七二年にノーベル文学賞。

ギュンター・グラスブリキの太鼓(ブリキの太鼓、一九五九年)は、三歳で成長を止めることを決めた少年の視点で、ナチス期のダンツィヒを語る。

この視点の選択が効いている。 大人の世界を下から見上げ、道徳的な判断を避けた語りが、かえって時代の姿を出す。ドイツ社会がまだ過去を正面から語れていなかった時期に、その回避そのものを描いた作品として受け取られた。

一九九九年にノーベル文学賞。二〇〇六年、彼は十七歳のときに武装親衛隊に所属していたことを公表し、大きな論争になった。 長く道徳的な立場から発言してきた作家であっただけに、その沈黙自体が議論の対象になった。

スイスの二人

ドイツ語文学はドイツだけではない。

マックス・フリッシュは『ホモ・ファーバー』『シュティラー』などで、「自分は誰か」という主題を扱った。人は他人が作った自分の像から逃れられるのか、という問いが繰り返される。

フリードリヒ・デュレンマットは戯曲『老貴婦人の訪問』で、大金と引き換えに一人の男の殺害を求める老女と、それを次第に受け入れていく町を書いた。喜劇の形式で、共同体が正当化の言葉を見つけていく過程を見せる。

東ドイツと、その後

東西の分断は文学にも及ぶ。東ドイツでは社会主義リアリズムに近い方針が取られ、検閲と亡命の問題がソヴィエトのロシアと似た形で生じた。

一九八九年の壁の崩壊、九〇年の統一の後、東側の作家の位置づけと、監視機関シュタージへの協力をめぐる問題が表面化した。

現在

ベルンハルト・シュリンク朗読者(朗読者)は、少年と年上の女性の関係から始まり、後に彼女が収容所の看守だったことが明らかになる。 文盲であることを隠すために不利な証言を受け入れる、という筋を持つ。戦後世代が前の世代の罪とどう関わるかを、個人の関係として書いた。

W・G・ゼーバルトアウステルリッツなどで、写真を本文に挿入し、語り手が他人の話を伝聞として語るという形式をとった。記憶と喪失を、直接には語らない方法で扱う。イギリスで長く教えた。

エルフリーデ・イェリネク(オーストリア、二〇〇四年ノーベル文学賞)は、社会の暴力と言語の関係を扱う。ヘルタ・ミュラー(ルーマニア出身のドイツ語作家、二〇〇九年)は、チャウシェスク政権下の抑圧を書いた。

ドイツ語文学の書き手が国境の外に広く存在するという構図は、二十世紀前半から続いている。

この時代をどう読むか

中身
言語への不信加害の言語で書くという問題が出発点にある
朗読の場「四七年グループ」が戦後文学の中心を作った
回避を書くギュンター・グラスは正面から語れない社会そのものを主題にした
世代の問題後の世代が前の世代の罪とどう関わるかが繰り返し扱われる

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