アーダルベルト・シュティフター
- 原綴
- Adalbert Stifter
- 生没
- 1805–1868
- 出身
- オーバープラン(ボヘミア、現・チェコ)
- 国
- ドイツ
- 時代
- 19世紀
生涯
1805年、ボヘミアの山村オーバープランに生まれた。父は亜麻の織物と商いをしていたが、シュティフターが十二歳のとき、荷馬車の事故で死んだ。
修道院の学校で学び、ウィーン大学で法律を学ぶ。学位は取らなかった。裕福な家庭の家庭教師として生計を立て、メッテルニヒ侯の子も教えている。
若い頃、商家の娘ファニーに恋したが、家の反対で結ばれなかった。後に別の女性と結婚したが、子はできなかった。妻の姪を養女に迎えたところ、この少女は1859年に家出をして川で溺死している。
風景画家を志した時期が長く、生涯にわたって絵を描き続けた。作品の風景描写には、この訓練が反映されている。
1848年の革命をウィーンで経験した。当初は自由主義に共感したが、暴力を目にして幻滅する。以後、教育によって人が徐々に善くなるという立場をとった。
1850年、リンツの学務監督官に就任した。教科書の編纂と学校制度の整備に携わっている。
晩年は肝硬変に苦しんだ。1868年、剃刀で自らの首を切り、二日後に死去した。62歳だった。自死とする見方が一般的である。
作風
シュティフターの小説では、事件がほとんど起きない。
代わりに置かれるのは、事物と自然の記述である。花、石、雲、道具、家の造り、季節の推移。これらが正確に、長く書かれる。人物の行動も、食事の作法や書物の並べ方といった細部から示される。
この方法は「穏やかな法則」という考え方に基づく。シュティフターは『石さまざま』の序文でそれを述べた。そよ風、水の流れ、穀物の成長といったものが、火山の噴火や地震より大きな力を持つ。同じように、人間においても、日常のなかで正しく振る舞い続けることのほうが、劇的な行為より重い。だから小説も、その穏やかな持続を書くべきだという主張である。
この序文は、ヘッベルの批判に応えたものである。ヘッベルは、シュティフターは小さなものしか見ていないと評した。それに対して、大きいか小さいかの尺度そのものを問い直す形になっている。
自然は、人間に対して友好的ではない。『水晶』では、山を越えて祖母の家を訪ねた幼い兄妹が、帰り道に吹雪で道を失い、氷河の上で一夜を過ごす。二人は助かるが、そのあいだ自然は何の意図も示さない。ただ美しく、そして危険なものとしてある。
文体は静かで、感情の高まりを作らない。人が死んでも、恋が破れても、記述の調子は変わらない。
作品
『習作集』(1844〜50年)
初期の中篇を集めたものである。「禿鷹」「森の小径」などを含む。
『石さまざま』(1853年)
六篇の中篇集で、鉱物の名を各篇の題にしている。「水晶」「みかげ石」「石灰石」など。序文で「穏やかな法則」が述べられる。子どもが主人公になる作品が多い。
『晩夏』(1857年)
主著である。若い男が嵐を避けて立ち寄った屋敷で、その主人と交わり、薔薇の育て方、鉱物の分類、古美術の修復を学び、やがてその娘と結婚する。三巻にわたって、ほとんど何も起きない。物と手順の記述が続く。ニーチェがドイツ語散文の数少ない傑作の一つに挙げたことで知られる。
『ヴィティコー』(1865〜67年)
中世ボヘミアを舞台にした歴史小説である。
日本語では『水晶』を含む『石さまざま』が読みやすい。『晩夏』も訳がある。
文学史における立ち位置と影響
シュティフターは、19世紀オーストリアの散文を代表する。
同時代の評価は分かれた。地味で退屈だという批判が強く、ヘッベルは『晩夏』を最後まで読んだ者にはポーランド王冠を与えると皮肉った。一方で、ニーチェの高い評価がある。
再評価は20世紀に入ってからである。トーマス・マン、ヘッセ、ベンヤミン、ハントケらがそれぞれ論じている。事物の記述だけで小説を成立させるという方法が、20世紀の関心と合致したためである。
とくに『晩夏』は、教養小説の系譜のなかで特異な位置を占める。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』が世界のなかで成長する物語であるのに対し、こちらは秩序が完成した空間に人が入っていく物語になっている。
一方で、その秩序をユートピアと見るか、現実から目を背けた閉鎖空間と見るかで解釈が割れてきた。1848年の革命への幻滅が背景にあるという読み方が、この議論の中心にある。
日本での受容は厚い。辻邦生をはじめとする作家が言及し、『水晶』は繰り返し訳されている。事物を静かに書き続ける文体が、日本語の散文と親和的だと論じられてきた。