ドイツ19世紀

ドイツ文学 19世紀

通史では、この時代を「亡命と、地方の散文」と要約した。ここではその中身を開く。

一八三二年にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが死ぬ。巨大な存在が消えた後、ドイツ文学は方向を探す時期に入る。

イギリスフランスロシアがこの世紀に長篇小説の全盛を迎えたのに対し、ドイツはその流れに乗り遅れる。 理由を先に述べておく。

首都がなかった。 ロンドンやパリのような文化と出版の集中点がない。読者市場が分散し、大都市の社会全体を描く長篇小説が成立しにくかった。

検閲があった。 一八一九年以降、政治的な出版に厳しい規制が敷かれた。作家の亡命が相次ぐ。

亡命と政治詩

ハインリヒ・ハイネはこの時代の詩人の代表である。

前半生の抒情詩は、ロマン主義の型を使いながら、最後で自分の感傷を茶化して壊す。 この皮肉が特徴になる。多くがシューベルトやシューマンによって歌曲になった。

一八三一年にパリへ移り、以後帰国しなかった。ユダヤ系であり、政治的にも当局に危険視されていた。 『ドイツ・冬物語』では、故国を旅する形式で祖国の後進性を辛辣に書く。

マルクスと交流があり、社会主義に共感しつつ距離も取っていた。 晩年は病床にあり、その時期の詩がまた高く評価されている。

ナチス期にはこの詩人の著作が焼かれた。 ただし民謡になるほど広まった作品は消せず、「作者不詳」として歌い継がれたと伝えられる。

ビューヒナー — 早すぎた作家

ゲオルク・ビューヒナーは二十三歳で死んだ。残した戯曲は三本である。

ヴォイツェクは、貧しい兵士が上官と医者に人体実験のような扱いを受け、恋人を刺す話である。断片のまま残され、上演されたのは死後八十年近くたってからだった。

手法が同時代から外れている。 場面が短く切れ、心理の説明がなく、主人公は言葉をうまく操れない。貧困が人間を壊す過程を、社会の側の問題として書く。

『ダントンの死』はフランス革命を扱い、革命が自分の担い手を食い潰す構造を書いた。

二十世紀の演劇——表現主義、ベルトルト・ブレヒト——がこの作家を発見した。生前の評価と後世の評価が大きく食い違う例である。

詩的リアリズム

世紀半ば、散文の主流は詩的リアリズムと呼ばれる。

現実を描くが、フランスの自然主義のように醜さを直視するのではなく、日常の中から意味のある細部を選び取る。 舞台は地方の町や村であり、都市の全体像は扱わない。

アーダルベルト・シュティフターは、自然と静かな生活を精緻な文体で書いた。「小さなものにこそ法則がある」という趣旨の主張を序文に置いている。同時代には退屈と評されたが、二十世紀に再評価された。

ゴットフリート・ケラーはスイスの作家で、『緑のハインリヒ』は挫折する芸術家志望の青年を描く教養小説である。ただし主人公は成功しない。 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの型を継ぎつつ、その結末を裏切っている。

テオドール・シュトルムは北ドイツの海辺を舞台に、回想の枠を使った中篇を書いた。

統一の後 — 社会が見えてくる

一八七一年、ドイツ帝国が成立する。ベルリンが首都になり、都市の小説の条件がようやく整う。

テオドール・フォンターネは六十歳近くから小説を書き始めた。『エフィ・ブリースト』は、若くして年長の官吏に嫁いだ女性が、些細な過去を理由に社会から排除される話である。

告発の調子がない。 会話が中心で、社会の規範がどう人を追い詰めるかは、人物の言葉づかいから読み取る形になっている。ギュスターヴ・フローベールレフ・トルストイの同主題の作品と並べて論じられる。

ゲアハルト・ハウプトマンは自然主義の戯曲を書いた。『織工』は一八四〇年代のシレジアの織工の蜂起を扱い、特定の主人公を置かず、集団を主役にする。 方言をそのまま台詞に使った。

ニーチェ — 哲学と文体

フリードリヒ・ニーチェは哲学者だが、文学史でも扱われる。

ツァラトゥストラはこう言ったは論文でも小説でもなく、箴言と寓話と語りが混ざった形式で書かれている。思想を体系ではなく断章と比喩で提示したことが、後の作家に強く作用した。

トーマス・マンヘルマン・ヘッセゴットフリート・ベン、そしてドイツ語圏の外ではアンドレ・ジッドW・B・イェイツまで、影響の範囲は広い。

彼の思想が後にナチスに利用されたことは、妹による遺稿の改変を含めて、繰り返し検証されてきた問題である。

この時代をどう読むか

中身
中心の不在首都がなく、都市の全体を描く長篇の条件が整わなかった
亡命という位置ハインリヒ・ハイネは国外から祖国を書いた
遅れて届いた作家ゲオルク・ビューヒナーは二十世紀の演劇に発見された
統一後の散文テオドール・フォンターネの小説で、社会が見える形になった

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