ルートヴィヒ・ティーク
- 原綴
- Ludwig Tieck
- 生没
- 1773–1853
- 出身
- ベルリン
- 国
- ドイツ
- 時代
- 古典主義・ロマン主義
生涯
1773年、ベルリンの綱職人の家に生まれた。学校で古典と演劇に親しみ、ハレ、ゲッティンゲン、エアランゲンの大学で学んだ。
若い頃から生活のために大量に書いた。書籍商の依頼で怪談や通俗小説を量産している。この職人的な仕事の経験が、後に多様な形式を自在に扱う能力になった。
1797年からベルリンでフリードリヒ・シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、シュライアーマハーと交わり、初期ロマン主義の一群に加わる。1799年にイェーナへ移った。
1801年にノヴァーリスが死去すると、その遺稿を編集して刊行した。『青い花』が世に出たのはこの仕事による。
1802年以降、健康を害して各地を転々とした。リウマチに苦しみ、執筆が中断した時期が長い。
1819年からドレスデンに住み、宮廷劇場の顧問を務めた。この時期、朗読者としての名声が高まる。自宅で戯曲や小説を朗読する会を開き、ヨーロッパ各地から人が訪れた。声色を使い分ける技術に定評があったと伝えられる。
1841年、プロイセン王に招かれてベルリンへ戻った。1853年、79歳で死去した。
作風
ティークが作ったのは、民話を怪奇な短篇へ書き換える方法である。
素材は口承の物語だが、そのまま記録するのではない。日常の描写のなかへ、説明のつかないものが入り込むように書き直す。『金髪のエックベルト』では、少年時代に森の老婆のもとから宝石と鳥を盗んで逃げた男が、その過去を妻に打ち明ける。すると妻が死に、次々に現れる人物が同一人物のように見えてくる。最後に、妻が実の妹だったことが明かされる。因果の説明はない。
森が繰り返し現れる。ティークが用いた「森の孤独(Waldeinsamkeit)」という造語は、ドイツ・ロマン主義の鍵語になった。安らぎと、正気を失わせる何かとが同時にある空間として書かれる。
もう一つの特徴が、自己言及の技法である。『長靴をはいた猫』は童話劇の形をとりながら、舞台上に観客が現れて劇に文句を言い、作者が出てきて言い訳をし、舞台装置が壊れる。虚構であることを露出させることで劇を進める。シュレーゲルの言う「イロニー」を実作で示したものとして扱われる。
作風は一定しない。初期の啓蒙的な小説、ロマン主義の怪奇短篇、諷刺的な童話劇、そして後期の写実的な中篇。時代の変化に応じて形式を変え続けた。
翻訳者としての仕事も大きい。シュレーゲル兄弟の兄アウグスト・ヴィルヘルムが始めたシェイクスピアのドイツ語訳を、娘ドロテアと協力者とともに完成させた。
作品
『金髪のエックベルト』(1797年)
最もよく知られた短篇である。
『長靴をはいた猫』(1797年)
童話劇で、演劇の約束事を壊す構成をとる。
『フランツ・シュテルンバルトの遍歴』(1798年)
デューラーの弟子という設定の画家を主人公にした小説である。芸術家小説の初期の例にあたる。
『ルーネンベルク』(1804年)
山の魔力に取り憑かれた男が、家族も生活も捨てて石を求め続ける短篇である。
『ファンタズス』(1812〜16年)
それまでの作品を枠物語のなかに収めた集成である。
『シェイクスピア全集』の翻訳(1825〜33年)は、いわゆるシュレーゲル=ティーク訳として、今日もドイツ語圏の標準訳の一つになっている。
『ヴィットーリア・アコロンボーナ』(1840年)
最後の長篇で、写実的な歴史小説である。
日本語では『金髪のエックベルト』が読める。
文学史における立ち位置と影響
ティークは、ドイツ・ロマン主義の散文を実作の面で代表する。シュレーゲルが理論を書き、ノヴァーリスが断章と詩を残したのに対し、読める物語を書いたのがこの人物である。
怪奇短篇の型を作った点で影響が大きい。日常のなかに不可解なものが割り込み、説明されないまま終わるという構成は、ホフマンへ受け継がれ、そこからフランスとロシアの幻想文学へ広がった。
グリム兄弟の童話収集とは方向が異なる。グリムが伝承を記録しようとしたのに対し、ティークは素材として自由に作り変えた。民話をどう扱うかの二つの態度として、しばしば対比される。
演劇における自己言及の技法は、20世紀に再評価された。虚構であることを舞台上で示す方法は、ピランデッロやブレヒトの先例として論じられる。
シェイクスピア訳の完成も業績である。この訳を通じて、シェイクスピアはドイツ語圏で自国の古典に近い位置を得た。
一方、作家としての評価は分かれてきた。生産量が多く、質にばらつきがあり、時代に応じて作風を変えたため、全体像を捉えにくい。今日読まれているのは初期の短篇にほぼ限られる。
日本では『金髪のエックベルト』が紹介され、幻想文学の系譜のなかで言及される。