パウル・ツェラン

原綴
Paul Celan
生没
1920–1970
出身
チェルノヴィッツ(当時ルーマニア領、現・ウクライナ)
本名
Paul Antschel
ドイツ
時代
戦後

生涯

1920年、当時ルーマニア領だったブコヴィナのチェルノヴィッツに生まれた。本名はパウル・アンチェルという。ドイツ語を話すユダヤ人の家庭で、多言語が入り混じる地域だった。

医学を学ぶためフランスへ渡ったが、大戦の勃発で帰郷し、地元の大学でロマンス語学に転じた。

1941年、ドイツ軍とルーマニア軍が同地を占領する。両親は1942年に強制移送され、父は発疹チフスで、母は銃殺によって死んだ。ツェラン自身は強制労働の収容所に送られ、生き延びた。母の死は生涯にわたって作品の中心にある。

戦後、ブカレストを経てウィーンへ逃れ、1948年にパリへ移った。以後、死ぬまでパリに住み、高等師範学校でドイツ語を教えながら詩を書いた。翻訳者としても働き、ランボーヴァレリーシェイクスピアマンデリシタームらを訳している。

1948年、ウィーンで詩人インゲボルク・バッハマンと出会った。二人の関係は断続的に続き、往復書簡が後に刊行されている。1952年にフランス人画家ジゼル・レストランジュと結婚した。

1953年から、詩人イヴァン・ゴルの未亡人による盗作の告発が始まる。根拠のない中傷だったが十年以上続き、ツェランの精神を深く傷つけた。ドイツの文壇が十分に擁護しなかったこと、告発の背後に反ユダヤ主義を見たことが、その孤立を深めている。

1960年代から精神の変調が重くなり、入院を繰り返した。1970年4月、セーヌ川に身を投げて死去した。49歳だった。

作風

ツェランが直面したのは、加害者の言語で書くという問題である。

母語であり、母を殺した者たちの言語でもあるドイツ語。ツェランはそれを捨てなかった。詩人は母語でしか真実を語れない、という趣旨を述べている。だがその言語をそのまま使うこともできない。

初期の「死のフーガ」は、まだ豊かな比喩と音楽的な構成を持っている。反復される句、対句、旋律のような進行。だがこの詩の成功そのものが、後にツェランを苦しめた。惨劇を美しく歌ってしまったのではないか、という疑いである。晩年、この詩の朗読を断るようになった。

以後、詩は切り詰められていく。行が短くなり、語が減り、一語だけの行が置かれる。修飾が消え、比喩が減る。ドイツ語の合成語の仕組みを使って、辞書にない語を作る。息、灰、石、雪、傷といった限られた語彙が繰り返し現れる。

そして意味を確定させない。文がどこで切れるか、代名詞が何を指すかが定まらない。読者は解読を試み続けることになる。この難解さは技巧のためではなく、語りえないものに接近する方法として理解されている。

後期の詩集では一篇が数行に縮む。沈黙のほうが多い頁になる。詩が消えていく方向へ進んだ書き方として、20世紀の詩の一つの極点に置かれる。

作品

「死のフーガ」(1948年発表)は最もよく知られた詩である。収容所を主題とし、「朝の黒いミルク」という句と、ドイツから来た親方としての死という形象が反復される。ドイツ語圏の学校教育で、ホロコーストを扱う際に必ず読まれる作品になった。

『罌粟と記憶』(1952年)

「死のフーガ」を収めた詩集で、ツェランの名を確立した。

『言葉の格子』(1959年)から、切り詰めた文体への移行が明確になる。

『誰でもないものの薔薇』(1963年)

この時期の代表的な詩集である。スターリンの時代に流刑地で死んだロシアの詩人マンデリシタームに捧げられた詩を含む。

『息の転回』(1967年)以降は、さらに短い詩が並ぶ。

『子午線』(1960年)

ドイツ語圏で最も権威のあるビュヒナー賞を受けた際の講演である。詩とは何か、詩は誰に向かうかを論じたもので、ツェランの詩論として最も重要な文章にあたる。

日本語では飯吉光夫や中村朝子らの訳がある。原語の造語と多義性が訳では再現しきれないため、註の充実した版を選ぶ意味が大きい。

文学史における立ち位置と影響

ツェランは戦後ドイツ語詩の最重要の詩人とされる。リルケ以後のドイツ語詩において、これに比肩する位置を占める者はいない。

哲学者アドルノが1949年に述べた、アウシュヴィッツ以後に詩を書くことは野蛮である、という言葉と、繰り返し並べて論じられる。ツェランの詩の存在そのものが、この命題への応答として読まれてきた。アドルノ自身も後に自分の言葉を修正している。

哲学からの参照が多い。ガダマー、レヴィナス、デリダがそれぞれツェラン論を書いた。1967年にはハイデガーと会っているが、この対面については、ナチスへの関与について謝罪の言葉を得られなかったとする理解が広く行われている。

証言文学の系譜では、散文で記述という方法を選んだプリーモ・レーヴィと対比される。レーヴィが理解可能な言葉で書き切ろうとしたのに対し、ツェランは言語が破壊された地点から書いた。

詩の技法の面では、言語そのものを疑う書き方の到達点として扱われる。以後のドイツ語詩人にとって、この作品を通過しないことは難しい。

日本では1970年代以降に紹介され、詩人と哲学の双方で読まれている。

作品

登場する文学史