W・G・ゼーバルト
- 原綴
- Winfried Georg Sebald
- 生没
- 1944–2001
- 出身
- ヴェルタッハ(バイエルン州)
- 国
- ドイツ
- 時代
- 戦後
生涯
1944年、バイエルン州アルゴイ地方の村に生まれた。父は国防軍の兵士で、戦後まもなくフランスの捕虜収容所から帰還している。
学校で戦争について教えられなかったこと、家庭でも語られなかったことが、後の仕事の出発点になった。ギムナジウムで強制収容所の記録映像を見せられ、その後に何の説明もなく授業が続いたという体験を、繰り返し語っている。
フライブルクとスイスの大学でドイツ文学を学び、1966年にイギリスへ渡った。マンチェスターの大学で講師となる。以後、生涯の大半をイギリスで過ごした。
1970年からイースト・アングリア大学で教え、1987年に教授になる。ドイツ文学の研究者として、デーブリーン論などを書いた。1989年、同大学に文芸翻訳センターを設立している。
創作を始めたのは40代後半である。1990年の『目眩まし』から、四冊の散文作品を発表した。1996年に英訳が出ると、英語圏で急速に評価が高まる。ノーベル賞候補として名が挙がるようになった。
2001年12月、イギリスの田舎道で運転中に対向車線へ入り、トラックと衝突して死去した。57歳だった。心臓発作が先に起きていたとされる。アウステルリッツの刊行から数か月後だった。
作風
ゼーバルトの散文は、小説とも紀行文とも回想録ともつかない形をとる。
語り手はドイツ出身でイギリスに住む男で、しばしばゼーバルト自身と重なる。その語り手が各地を歩き、人に会い、その人の身の上話を聞く。話は他の話へ入れ子になり、時代を遡り、別の土地へ移る。段落がほとんどなく、長い文が続く。
写真が本文に挟み込まれる。人物の肖像、建物、車票、日記の頁、風景。出典も説明もなく置かれ、キャプションもない。写真が本文の内容を裏づけているのか、無関係なものが紛れているのかは分からない。この不確かさが意図的に作られている。
主題は失われたものである。強制収容所によって断ち切られた人生、爆撃で消えた都市、絶滅した種、廃墟になった建物。ホロコーストは正面から書かれない。その周囲を回り、間接的に、別のものを通して現れる。
語りの調子は静かで、感情を高めない。破局が、旅の途中の見聞として淡々と記される。
言語も入り組んでいる。ドイツ語で書き、イギリスに住み、翻訳者と密接に協力して英訳を作った。英語圏では英訳が原典と同等に扱われている。
作品
『目眩まし』(1990年)
四つの部分からなる。スタンダール、カフカ、そして語り手自身の旅が重なる。
『移民たち』(1992年)
最初に広く読まれた作品である。ドイツを離れた四人の人物の生涯を、語り手が調べていく。いずれもユダヤ系で、いずれも晩年に自ら死を選ぶか、精神を病む。ホロコーストの直接の記述はほとんどない。
『土星の環』(1995年)
イングランド東部の海岸を歩いた記録の形をとる。歩きながら、絹の歴史、ニシン漁、コンゴの植民地支配、トマス・ブラウンの頭蓋骨、庭園の設計へと話が移っていく。
アウステルリッツ(2001年)
最後の作品である。ウェールズで牧師の子として育った建築史家アウステルリッツが、自分がチェコからの児童疎開(キンダートランスポート)で送られてきたユダヤ人の子だったことを、五十代になって知る。両親の行方を辿ってプラハ、パリ、テレージエンシュタットを訪ねる。
『空襲と文学』(1999年)
講義に基づく評論で、連合軍によるドイツ都市の爆撃を、戦後のドイツ文学がほとんど書かなかったことを論じた。ドイツで論争を呼んだ。
日本語では『アウステルリッツ』と『移民たち』が読める。
文学史における立ち位置と影響
ゼーバルトは、20世紀末の散文において最も独自の形式を作った書き手の一人とされる。
小説というジャンルの境界を扱い直した点で影響が大きい。虚構と記録、写真と文字、旅行記と歴史記述を混ぜる方法は、以後の作家に広く模倣されている。テジュ・コール、レイチェル・カスクらの作品が、しばしばこの系譜で語られる。
ホロコーストの表象という問題においても位置づけられる。直接書かず、周囲を巡ることで示すという方法は、ツェランやレーヴィとは別の解を出したものとして論じられてきた。
英語圏での評価が突出している。スーザン・ソンタグをはじめとする批評家が高く評価し、ドイツ本国より先に古典的な地位を得た。ドイツ語で書きながら英語圏の文学として受容されたという、珍しい経路をたどっている。
『空襲と文学』は、ドイツ人が自らの被害を語ることの是非という論争を引き起こした。加害の記憶と被害の記憶をどう扱うかという問題が、この本を機に公然と議論されるようになっている。
早い死により作品は四冊にとどまる。それでも参照される頻度は高く、20世紀末のヨーロッパ文学を論じるうえで欠かせない位置にある。