フリードリヒ・シラー

- 原綴
- Friedrich Schiller
- 生没
- 1759–1805
- 出身
- マールバッハ(ヴュルテンベルク公国)
- 国
- ドイツ
- 時代
- 古典主義・ロマン主義
生涯
1759年、ヴュルテンベルク公国のマールバッハに生まれた。父は軍医である。
13歳のとき、領主カール・オイゲン公の命令で士官学校に入れられた。逃亡を防ぐため外部との接触が厳しく制限された学校で、シラーはここで八年を過ごし、軍医として卒業する。文学は禁じられていたが、隠れてシェイクスピアやルソーを読んだ。
1781年、『群盗』を自費で出版する。翌年マンハイムでの初演が大成功を収めたが、無断で公国を離れて観劇に行ったことが露見し、公から執筆を禁じられた。シラーは公国を脱出する。以後数年、各地を転々としながら困窮した生活を送った。
1789年、イェーナ大学の歴史学教授に就任する。ゲーテの推薦によるものだった。三十年戦争史などの著作を書き、同時にカントの哲学を集中的に研究している。この時期に肺の病を得て、以後生涯にわたって健康を損なった。
1794年、ゲーテとの本格的な交友が始まる。十歳年上のゲーテとは当初そりが合わなかったが、以後の十年、二人は雑誌の刊行と作品の相互批評を通じて緊密に協力した。この協働がドイツ古典主義と呼ばれる時期を作る。
1799年にワイマールへ移り、戯曲を次々に発表した。1805年、結核により45歳で死去した。
作風
シラーの戯曲の中心には、自由がある。
処女作『群盗』からそれが出ている。父に疎まれた青年が盗賊団の首領になり、社会の不正に暴力で立ち向かう。当時のドイツ語圏で、既存の秩序をこれほど正面から否定した作品はなかった。初演では観客が興奮して立ち上がったと伝えられる。
書き方は理念的である。ゲーテが個々の人間を観察するのに対し、シラーの人物は思想を体現する。自由と義務、個人と国家、情念と理性。人物同士の対立が、そのまま原理の対立として組まれる。
長い台詞が特徴になっている。人物は自分の立場を演説として語る。この様式が、後に説教くさいという批判も招いた。
歴史を素材にすることが多い。『ドン・カルロス』はスペイン王家、『ヴァレンシュタイン』は三十年戦争、『マリア・ストゥアルト』は英国とスコットランドの女王の対決、ヴィルヘルム・テルはスイスの独立伝説を扱う。歴史学教授としての研究がそのまま素材になっている。ただし史実の細部は自由に変える。実際には会っていないエリザベス女王とメアリ・ステュアートを対面させ、劇の頂点をそこに置いた。
理論的な著作も多い。『人間の美的教育について』では、人間が自由になるには美を介した教育が要ると論じた。遊びの衝動によってはじめて人は全体になる、という考え方である。
作品
『群盗』(1781年)
最初の戯曲で、疾風怒濤期の代表作の一つに数えられる。
『たくらみと恋』(1784年)
貴族の子と市民階級の娘の恋が身分によって破滅する市民悲劇である。
『ドン・カルロス』(1787年)
スペイン王フェリペ二世の宮廷を舞台にする。ポーザ侯が王に向かって思想の自由を与えよと迫る場面が広く知られる。
『歓喜に寄す』(1785年)
詩で、ベートーヴェンが第九交響曲の終楽章に用いた。
『ヴァレンシュタイン』三部作(1798〜99年)は、三十年戦争の傭兵隊長を主人公にした最大規模の作品である。
『マリア・ストゥアルト』(1800年)
処刑を待つスコットランド女王と、エリザベス女王の対立を扱う。
ヴィルヘルム・テル(1804年)
最後の完成作で、圧政者の代官を射殺したスイスの弓の名手を主人公にする。息子の頭上の林檎を射る場面がよく知られている。
『人間の美的教育について』(1795年)
書簡形式の美学論である。
文学史における立ち位置と影響
シラーはゲーテと並んで、ドイツ古典主義を代表する。ワイマールの劇場前に立つ二人の像は、ドイツ文学の象徴として広く知られている。
ドイツ語圏における国民的な劇作家の位置にある。学校教育で必ず読まれ、上演回数もシェイクスピアに次ぐ。
自由を主題にしたことで、政治的にも読まれ続けた。1848年の革命期、そして20世紀の東西ドイツ、それぞれの立場が自分の側にシラーを引き寄せようとしている。ヴィルヘルム・テルはナチス期に上演を禁じられた。暴君殺しを正当化する筋書きが危険と見なされたためである。
『歓喜に寄す』はベートーヴェンの第九を通じて世界中に広まり、そのメロディは欧州連合の歌になっている。
演劇史の面では、理念を対立させる劇の型を確立した。ブレヒトは感情移入を否定する立場からシラーを批判したが、思想を舞台で論じるという枠組み自体は共有している。
ドストエフスキーがシラーを深く読んだことも知られる。カラマーゾフの兄弟には『群盗』への言及があり、兄弟の対立の構図にその影響が指摘される。ロシアでの受容は19世紀を通じて厚かった。
日本では明治期から紹介され、『ヴィルヘルム・テル』は自由民権運動の時期に翻案されて読まれた。